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坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町(現:伊予市)出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 からまでの登録名は坪内 道則(読み同じ)。 == 経歴 == 松山商から天王寺商に転校し、立教大学に進学するも中退。 に大東京軍の結成に参加。これには、同郷だった筒井良武の誘いがあったと自著〔坪内道則著『風雪の中の野球半世記』、ベースボール・マガジン社、1987年。〕で述べている。には選手兼任監督を務めた。住職であった弟が出征し代わって住職を務めたことと、試合中の鎖骨骨折により徴兵検査で予備要員にとどまったため、プロ野球選手としては珍しく一度も戦場には赴かなかった〔スポニチアネックス「プロ野球を愛し続けた男・坪内道則 初の1000本安打達成」 〕。 にゴールドスターで選手兼任監督としてプロ球界に復帰。には25試合連続安打を記録し、当時これが日本記録とされたが、実は前年に野口二郎が31試合連続安打を達成しており、1949年までそれが判明していなかった為の幻の日本記録となった。坪内は9月6日の阪急戦で4打数無安打に抑えられ記録を止められたが、この時の相手投手は野口二郎である(詳細は野口二郎#連続試合安打記録を参照)。 5月3日、日本野球連盟より阪神の若林忠志とともに日本国憲法公布記念の特別表彰を受けた。表彰では「野球名人」と称えられた〔文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」〕。 9月12日南海ホークス戦で日本プロ野球初の1000試合出場を達成。その16日後の9月28日急映フライヤーズ戦でやはり史上初の通算1000本安打を達成。当時はこれらの通算記録を祝福したり表彰したりする習慣がなく、どちらの記録もシーズン終了後公式記録員に聞かされて知ったという。これをきっかけに連盟による1000試合出場、1000本安打の表彰が行われるようになった〔。 に助監督兼外野手として中日ドラゴンズに移籍。限りで現役引退し、からまで中日監督、その後は西鉄ライオンズ打撃コーチ、中日打撃コーチ、ロッテオリオンズ二軍監督、中日合宿所の寮長を務めた。に野球殿堂入り。 1997年9月16日に心不全のため死去。満83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坪内道典」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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