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垣野 多鶴(かきの たづる、1951年6月15日 - )は、野球選手(内野手)・監督。現在は社会人野球・NTT東日本硬式野球部監督。第15回アジア競技大会野球日本代表監督。 == 経歴 == 長崎県佐世保市出身。長崎県立佐世保工業高等学校では1973年、2年生の時に右翼手、一番打者として夏の甲子園県予選決勝に進むが、海星高に敗退。翌夏も県予選準決勝で長崎工に敗れ、甲子園には届かなかった。卒業後は東海大に進学し、内野手として活躍。首都大学リーグでは、いずれも秋季に4回の優勝を経験。1973年の第2回日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。 1974年に三菱自動車川崎に入社。1976年の都市対抗に日本鋼管の補強選手として出場、準々決勝で同点適時打を放つなど活躍し、チームの優勝に貢献。1980年には選手兼任監督としてチームを牽引、8年ぶりの都市対抗出場に導く。現役を引退し監督に専任した1985年には都市対抗でチームをベスト4に押し上げた。 1989年シーズン限りで勇退すると、1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表のコーチを務めた。1999年シーズンオフにチーム事情から再び三菱自動車川崎のユニフォームに袖を通して現場復帰し、いきなり2000年の都市対抗で初優勝を遂げる。 また、2003年、2005年と都市対抗を制し、6年間で3回の都市対抗制覇という偉業を成し遂げ、2005年の大会では小野賞を獲得。また同年の社会人ベストナインでは、過去1人(川島勝司・ヤマハ監督)しかなしえていない3度の都市対抗制覇を称え、特別賞が授与された。 三菱ふそう川崎は2008年シーズンをもって活動休止となり〔三菱ふそう 硬式野球部活動休止について 2009年1月4日閲覧〕、2009年1月1日付けでNTT東日本の監督に就任した〔社会人野球:垣野氏がNTT東監督に 毎日新聞 2009年1月4日閲覧〕。 監督歴が長いことも手伝って、監督を務めている間に輩出したNPB選手は13人を数える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「垣野多鶴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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