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堀井 憲一郎(ほりい けんいちろう 1958年(昭和33年)2月9日 - )は、京都市出身のフリーライター、コラムニスト。週刊誌「週刊文春」に「ホリイのずんずん調査」を長期連載していた〔1995年(平成7年)5月4日・11日合併号から、2011年(平成23年)6月23日号まで。全792回。「ホリイのずんずん調査」は、事前に何の予兆もなく、「堀井憲一郎さんの「ホリイのずんずん調査」は今号で終了です。長年のご愛読ありがとうございました。」との週刊文春編集部コメントで終了した。〕ほか、テレビ・ラジオへの出演もある。2005年(平成17年)に結婚。 == 来歴・人物 == 『この役立たず!』によれば、大阪市天王寺区に生まれ、京都市東山区で育つ。ただ『ホリイの調査』など京都市生まれと記した著書も複数あり、どちらが正しいのかは定かではない。ただ故郷としての思い入れは京都にあるもよう。京都教育大学附属高等学校落語研究会・サッカー部を経て、3浪(最後の1年は仮面浪人)ののち、早稲田大学文学部日本文学専修を卒業。『馬鹿が止まらない!』によれば、中高生時代は、クラスの新聞係として、ウケる記事作りに熱中する一方、石森章太郎の『マンガ家入門』を読んで漫画家を目指し、当時全盛期だった笑福亭仁鶴や桂三枝(現・六代目桂文枝)に憧れ、高校では落語研究会に所属していた。大学では早稲田大学漫画研究会に所属していたが、入部歓迎で似顔絵を描いてくれたやくみつるのレベルに圧倒され、漫画家への途を断念し、留年を繰り返し七年で卒業した。『伊勢物語』をテーマに卒業論文を執筆したが、原稿用紙わずか35枚前後のもので、しかもそのうちの3分の1ほどを空白のまま提出し、何とか卒論として認めてもらったという。阪神タイガースをこよなく愛する。趣味は草野球。花火師の免許も持つ。 1984年(昭和59年)から文筆業を始める。週刊文春のコラム『ホリイのずんずん調査』を中心に、奇抜な発想に基づく調査を実施して、その結果をまとめるという独自のエッセイのスタイルを確立した。松任谷由実に倣い、デニーズの盗み聞きを元に歌詞をつくってみたり、スキー場の女性比率を調べたり、吉野家の店舗ごとの牛丼のつゆの量を調べたり、といった独創的な切り口で知られる。万歩計の取説に書いてある「○○歩で東海道横断」という記述を確かめるために、実際に東海道を踏破して万歩計の歩数を調べたが、京都目前の山科付近で「使用者の歩幅に依存する」ことに気づくという失態を犯している。キャッチフレーズは「何でも調べるフリーライター」。 テレビでは、2006年(平成18年)3月に放送を終了した日本テレビ系列の「TVおじゃマンボウ」に「TVウォッチャー」として第1回の放送から最終回まで出演していた〔第1回から最終回まで出演していたのは、司会の中山秀征と麻木久仁子(産休期間あり)の他は、堀井のみであった。〕。TBSラジオの出演歴もあり、「荒川強啓 デイ・キャッチ!」や、堀井と親交の深い宮川賢の「宮川賢の誰なんだお前は?!」や「夜な夜なニュースいぢり X-Radio バツラジ」にもレギュラー出演していた。 近年は落語に強い関心を示しており、年間400席以上の寄席/落語会に足を運び、春風亭小朝からも一目置かれる。「ずんずん調査」でも落語について書くことがある。 『東京かわら版』にて「ホリイの落語狂時代」を連載中。 早稲田大学漫画研究会在籍時の先輩にやくみつる、ラズウェル細木など、後輩にさそうあきら、けらえいこ、現代洋子、安倍夜郎、町山智浩らがいる。 2013年10月初旬に、人間国宝の落語家である桂米朝の事跡を綴った著書「桂米朝と上方落語の奇蹟」を執筆し講談社から出版する予定で、初版5,000部が既に印刷し終えていたが、一旦同月17日に発売延期とした後、11日に正式に発売中止とした。講談社側は理由として「本の記述に対し、事実と違うと関係者から指摘を受けたため」としている〔講談社が「桂米朝本」の出版中止 事実と違う記述で… スポニチ 2013年10月12日〕〔「桂米朝本」出版中止 講談社「関係者との認識の相違」 朝日新聞 2013年10月12日〕〔『桂米朝と上方落語の奇蹟』刊行中止に関するお詫びとお知らせ 講談社ニュースリリース 2013年10月11日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀井憲一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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