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堀悌吉 : ウィキペディア日本語版
堀悌吉[ほり ていきち]

堀 悌吉(ほり ていきち、1883年明治16年)8月16日 - 1959年昭和34年)5月12日)は日本の海軍軍人大分県杵築市出身。
同期生の山本五十六、後輩の井上成美からの信頼が厚く、山本権兵衛加藤友三郎らの系譜を継ぎ海軍軍政を担うと目されていたが、軍縮会議後の大角人事により中将予備役に編入される。東條内閣海相嶋田繁太郎が、「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」と述べている〔池田清『海軍と日本』(中公新書)p83〕ように、その才幹を惜しまれた人物である。また"戦争自体は悪である"との持論を持っていた〔宮野澄『海軍の逸材 堀悌吉』光人社NF文庫p45〕。
== 人物・来歴 ==
八坂字生桑の矢野弥三郎の次男として生まれる。母はタマ。10歳で杵築煙硝倉の士族・堀正治の養子となる〔杵築市誌編集委員会『杵築市誌 本編』2005年〕。
大分県立杵築中学校から海軍兵学校(32期)入校。席次は入校時190名中3番、卒業時192名中首席。同期生の山本五十六、2期後輩(34期)の古賀峯一は遠慮のない親友の間柄であった。堀は同期生が"神様の傑作のひとつ堀の頭脳"と述べたほどの秀才で兵学校、海軍大学校甲種、海軍砲術学校普通科学生を恩賜で卒業した。また芸術をよく好んだという。「三笠」乗組として日本海海戦に参戦。ワシントン軍縮会議では随員を務め、全権・加藤友三郎を補佐。"国防は軍人の専有物にあらず"という加藤の言葉を筆記したのが堀である。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見をもち、会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年(昭和8年)に海軍中将に昇進したが、翌1934年(昭和9年)、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。このとき山本五十六は「(日本海軍にとって)巡洋艦戦隊(条約の7割にわずかに足りない分をこのように表現した)と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」と嘆き、自らも海軍を退くことを考えたという。しかし堀は山本を励まし思いとどまらせた。1936年(昭和11年)1月、政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。日本は太平洋戦争の一因にもなった無期限軍備拡張の時代に突入した。
退職した1935年(昭和10年)には生家に帰り、「矢野氏系伝記」を著述。1936年(昭和11年)には日本飛行機社長、1941年(昭和16年)には浦賀ドック社長に就任した〔杵築市誌編集委員会『杵築市誌 本編』2005年〕。
戦後は公職追放指定を受けた。数社の役員、顧問等となり1952年(昭和27年)に追放指定は解除された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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