翻訳と辞書
Words near each other
・ 堀直哉
・ 堀直喜
・ 堀直堅
・ 堀直堯
・ 堀直央
・ 堀直央 (村松藩主)
・ 堀直央 (椎谷藩主)
・ 堀直定
・ 堀直宣
・ 堀直宥
堀直寄
・ 堀直富
・ 堀直寛
・ 堀直尭
・ 堀直庸
・ 堀直弘
・ 堀直恒
・ 堀直政
・ 堀直教
・ 堀直方


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

堀直寄 : ウィキペディア日本語版
堀直寄[ほり なおより]

堀 直寄(ほり なおより)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将大名越後坂戸藩信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主。堀直政の次男(または三男)〔ただし、『枢要秘書』という書に直寄直筆の文書の写しが採録されており、その中では「監物(直清)事ハ私ヨリオトゝニて御座候」と書かれており、これによれば直寄は庶長子であったことになる(『村松町史』)。〕。兄に直清、弟に直之直重ら。正室は長沢松平家出身の松平近清の娘。子に直次直時、娘(池田長常正室)、娘(岡部行隆正室)。官位は従五位下丹後守。
== 生涯 ==

=== 豊臣秀吉に仕える ===
天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。
慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。
会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「堀直寄」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.