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堂洞合戦[どうほらがっせん]
堂洞合戦(どうほらがっせん)は、永禄8年8月28日(1565年9月22日)に織田信長軍・加治田衆と斎藤龍興方の岸信周との間で行われた堂洞城を中心とした合戦である。 == 合戦に至る経緯 == 信長の美濃侵攻に備え、関城長井道利、加治田城佐藤忠能、堂洞城岸信周の盟約が結ばれ、道利の勧めで忠能の娘八重緑を岸方の養女(人質)として結束が固められた。だが、忠能は加治田城下の住人梅村良澤を信長方の犬山に遣わし、丹羽長秀を介して内応。鵜沼城、猿啄城が織田軍によって落城し、猿啄城将の多治見修理亮が甲斐へ逃走すると、敗兵は堂洞城に入って岸勢と合流した。 信長は金森長近を使者として堂洞城へ派遣し投降を勧めるが岸信周は受け入れず、嫡男信房は長近の目の前で自分の子の首を斬り落として覚悟を示したため、長近は引き下がった〔。岸方が合戦の準備をする中、人質の八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされた。その夜、忠能の家臣西村治郎兵衛が忍び、八重緑の亡骸を岸方から奪い取って加治田の龍福寺へ葬ったと伝わる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堂洞合戦」の詳細全文を読む
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