|
蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇妃。欽明天皇の妃。蘇我稲目の娘。子に用明天皇、推古天皇など。なお、「かたしお」(片塩:大和高田市にある安寧天皇の宮があった古地名、あるいは固めた塩)でなく、「きたし」と読むかは不明。 == 生涯 == 蘇我稲目の子として誕生。妹に同じく欽明天皇の妃になった蘇我小姉君、用明天皇の嬪になった蘇我石寸名、弟に蘇我馬子、境部摩理勢がいる。 欽明天皇の妃となり、用明天皇や推古天皇などを生んだ。 没後の推古天皇20年(612年)2月、欽明天皇の檜隈大陵に合葬され、軽の街で誄を奉る儀式が盛大に行われた。堅塩媛は皇太夫人と尊称され、蘇我馬子の主導のもと阿倍鳥が天皇の命を誄し、諸皇子が誄し、中臣烏摩侶が大臣の辞を誄し、境部摩理勢が氏姓の本を誄した。これは蘇我氏の絶大な権威を示す儀式であった。 なお子の桜井皇子を通じて、皇室に蘇我氏の血を残す事になった。その系図は蘇我稲目―蘇我堅塩媛―桜井皇子―吉備姫王―皇極天皇―天智天皇…今上天皇となる。彼女の他に蘇我氏の血を残した女性は、時代を下り藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた蘇我娼子のみである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘇我堅塩媛」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Soga no Kitashihime 」があります。 スポンサード リンク
|