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堅田元慶 : ウィキペディア日本語版
堅田元慶[かただ もとよし]

堅田 元慶(かただ もとよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将毛利氏小早川氏の家臣。
== 生涯 ==

毛利輝元の近習として寵愛される。天正10年(1582年)に元服して、元勝と名乗る。行政手腕に優れていたため、毛利輝元小早川隆景に信任を受けた。そのため子の無かった小早川隆景の養子として認められたが、元慶はそれを辞退して、周防国堅田を名字として名乗った。養嗣子にはならなかったものの、隆景の寵愛を受け、天正13年(1585年)に隆景が伊予国に移封された際、それまで隆景の本拠であった三原城を預けられた。
天正16年(1588年)には輝元に従って上洛。豊臣秀吉にも気に入られて大坂城にも出仕し、従五位下兵部少輔に叙任、豊臣姓を下賜された。
文禄・慶長の役では朝鮮半島へ上陸し、毛利軍の一員として戦っている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいても、四国方面の経略を進めると共に毛利輝元の側近として大坂城に入り、各方面へ輝元の指示を伝えている。
敗戦後は毛利氏の防長移封に従うも、徳川家康は関ヶ原前後の元慶の行動は安国寺恵瓊と同じであるとして元慶の処刑も考えていたが、井伊直政本多正信の執り成しによって〔堅田大和書付〕であると輝元嫡子毛利秀就とともに証人(人質)として江戸に住した。生命は許されたものの、その身は20年の長きに渡って江戸に留め置かれた。元慶は一時帰国が許されることもあったが、帰国が長期に渡ることもあり、毛利輝元は本多正信の意見に従い、元慶の家族を江戸に送らせた。
慶長15年(1610年)、元慶は以前から懇意にしていた周防国山口の瑠璃光寺の元住持秀山を誘い、江戸に瑠璃光寺を創建した。
元和8年(1622年)に江戸で死去した。墓所は東京都港区瑠璃光寺。
子の就政は、幼少のため所領を湯野・戸田・日置の2,000石に削減され、寛永2年(1625年)周防国湯野(現在の湯野温泉)に移住した。子孫は同地で明治維新を迎えている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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