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堤 俊輔(つつみ しゅんすけ、1987年(昭和62年)6月8日 - )は、埼玉県新座市出身のサッカー選手。アビスパ福岡に所属。ポジションは左サイドバック、センターバック。私立浦和実業学園高校卒業。 == 来歴 == 中学生・高校生年代では、浦和レッズジュニアユース、ユースに所属。ユース時代にはキャプテンを務めた。2005年の8月に2種登録選手としてトップチームに登録され〔レッズユース3選手を、Jリーグ出場可能選手として登録 - 浦和レッズ オフィシャルサイト(2005年8月26日)〕、以後のトップチームへの帯同を経て、翌2006年、西澤代志也、小池純輝とともにトップチームに昇格した〔新加入選手、内定のお知らせ - 浦和レッズ オフィシャルサイト(2005年11月15日)〕。また、宇賀神友弥もユース時代の同期。 2006年はU-19代表に招集され、AFCユース選手権に出場したものの、浦和では公式戦で使われるどころかサブにも入れない日が続いた。その後天皇杯でベンチ入りし、優勝の瞬間を間近に見ることができた。翌2007年シーズン、トップでの試合経験がないことを理由にU-20ワールドカップメンバー入りを逃したが、同時期に行われたA3カップ、山東魯能戦で公式戦初出場。また、ナビスコカップ1回戦G大阪戦で国内戦デビューを果たした。 2008年、オジェック監督解任後に発足したエンゲルス体制において、第3節の新潟戦でリーグ戦初出場すると、チームのリーグ戦初勝利に貢献し、坪井慶介に変わりレギュラーに定着。ユース出身選手初となるA契約を締結した。 同年5月1日、大原サッカー場近くで自動車を運転中にバイクと接触事故を起こした。双方とも怪我はなかったが、チームではオジェック監督(当時)、内舘秀樹に続いて3件目であり、チームから厳重注意処分を受けた。 2008年シーズン終盤、トレーニング中に左ひざ前十字じん帯断裂の重傷を負い、シーズン終了後に手術を受けた。フォルカー・フィンケ新監督から「堤がいるので補強を見送った」と言われるほど〔Jリーグ第3節前日 フィンケ監督 - 浦和レッズ オフィシャルサイト(2009年3月20日)〕左サイドバックとして高い期待を受けたものの、新しい靭帯が上手く適合せず再手術となってしまい、2009年シーズン中の復帰は絶望的と言われていたが、10月下旬よりトレーニングに部分合流。11月からはほぼ全てのトレーニングに合流し、練習試合にも出場できるまで回復した。 2010年2月20日に行われたプレシーズンマッチ、対徳島戦で左サイドバックとして先発出場。久々に実戦復帰を果たし、シーズン開始後はリーグ戦とカップ戦、それぞれ1試合に出場。しかし、長期離脱した影響で試合勘が戻っておらず低調なパフォーマンスに終始し、その後は出場機会に恵まれず、同年6月よりロアッソ熊本に期限付き移籍した〔堤 俊輔選手、浦和レッズより期限付き移籍加入のお知らせ - ロアッソ熊本公式サイト 2010年6月13日閲覧〕。熊本では移籍直後からDF市村篤司の故障もあり、主力選手として活躍し、熊本の躍進に貢献した。 シーズン終了後の2010年12月8日、2011年から浦和へ復帰することが発表された〔堤俊輔、期限付き移籍から復帰 - 浦和レッズ オフィシャルサイト(2010年12月8日)〕。だが2011年は1試合に出場することもなく、7月14日に栃木SCへ期限付き移籍することが発表されたが〔堤俊輔選手期限付き移籍加入のお知らせ - 栃木SC公式サイト 2011年7月14日閲覧〕、同年12月2日、栃木との期限付き移籍期間満了及び所属先である浦和から契約満了に伴い来シーズンの契約を更新しないことが発表された。 2012年より、アビスパ福岡へ完全移籍。移籍初年度の2012年は、調子の波があり本来の実力を発揮できなかったが、2013年は開幕戦となる第1節の東京V戦(味の素ス)でスターティングメンバ―に起用されると、その後も主力選手として完全に定着。第13節の横浜FC戦(ニッパツ三ッ沢)では、決勝点となるプロ入り初ゴールを決めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堤俊輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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