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九条忠教[くじょう ただのり] 九条 忠教(くじょう ただのり、宝治2年(1248年) - 正慶元年/元弘2年12月6日(1332年12月24日))は鎌倉時代の公卿、従一位・関白、通称に報恩院関白。父は九条忠家。母は三条公房の娘。室は二条道良の娘、西園寺公相の娘、藤原有時の娘、二条道良の娘。子に九条師教、九条房実、尊覚(興福寺別当)、教寛(東大寺別当)、二条兼基室(禖子)。 == 経歴 == 正嘉2年(1258年)12月27日に元服し、従五位上に叙位される。2年後に右近衛権少将に任ぜられ、弘長2年(1262年)には従三位に叙されているが、摂関家子弟が本来辿る参議以上の議政官を経ずに二位に達している。これは建長3年(1251年)の了行法師の謀反事件に絡んで父親の忠家が右大臣を解任され、以後復帰できなかったところが大きいとされる。ところが文永10年(1273年)5月に突如忠家が復権して関白に任ぜられると12月には忠教も権中納言に任ぜられ、文永11年(1274年)には先任の鷹司兼忠を超えて権大納言兼左近衛大将、建治元年(1275年)右大臣、正応元年(1288年)左大臣などを歴任し、正応4年(1291年)辞任した近衛家基に代わり、関白、藤氏長者になるが、正応6年(1293年)に更迭され、家基に関白及び藤氏長者を返上する。 近江にあった藤原不比等の別荘跡に現在の安楽寺を建立。正安元年(1299年)、平安時代の京都六条河原にあった源融邸跡地を善導寺に寄進して、現在地に善導寺を移らせて、歓喜光寺としている。延慶2年(1309年)に出家して、法名を円阿と称した。
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