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塚原俊郎 : ウィキペディア日本語版
塚原俊郎[つかはら としお]

塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日1975年12月7日)は、日本政治家総理府総務長官労働大臣正三位勲一等通商産業大臣を務めた塚原俊平は長男。
== 来歴・人物 ==
現在の茨城県常陸太田市に、教育者・塚原末吉の二男として生まれる。水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)、水戸高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部社会学科を卒業、同盟通信社記者となる。
戦後は官界に転じ、情報局情報官、内務省地方局世論調査課長を務めた後、1947年増田甲子七運輸大臣秘書官となる。1949年第24回衆議院議員総選挙民主自由党から旧茨城2区にて立候補し当選する(当選同期に池田勇人岡崎勝男前尾繁三郎橋本龍伍小渕光平西村英一橋本登美三郎木村俊夫藤枝泉介稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など)。以後連続10回当選。党内では当選同期の麻生太賀吉福永健司らとともに、いわゆる「吉田茂側近グループ」の一員であった。
保守合同後は佐藤栄作派-福田赳夫派に所属する。建設政務次官、衆院予算委員長、自由民主党広報委員長を経て、1966年第1次佐藤内閣第3次改造内閣にて総理府総務長官として初入閣する。1970年には党国会対策委員長として、幹事長の保利茂とともに「沖縄国会」を成功裡に導く。1972年第3次佐藤内閣改造内閣時、問題発言で引責辞任した原健三郎の後任として労働大臣に就任。
1975年12月7日、地元で演説中に急性心不全にて演壇上に倒れ急逝する。享年65。没後正三位。











抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「塚原俊郎」の詳細全文を読む



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