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塚原昌義 : ウィキペディア日本語版
塚原昌義[つかはら まさよし]
塚原 昌義(つかはら まさよし、文政8年(1825年) - 没年不詳)は、幕末の江戸幕府旗本。通称、重五郎。官位は但馬守。祖先は武田遺臣で、武蔵国多摩郡留所村(現八王子市)、下総国香取郡丁子村(現香取市)などの領地を持つ旗本となった。〔旧高旧領取調帳データベースによる。〕
〔尾佐竹 73頁〕
== 生涯==
文政8年(1825年)、禄高450石の旗本、塚原寛十郎の子として江戸牛込にて出生。
嘉永6年(1853年)に学問吟味に合格し、部屋住のまま安政3年(1856年)外国貿易取調掛に抜擢され、安政6年(1859年外国奉行支配調役に昇進。万延元年(1860年日米修好通商条約批准書交換に赴く正使新見正興とする万延元年遣米使節に随行した。
文久元年(1861年)8月徒頭、文久2年(1862年)9月目付講武所頭取、歩兵頭格大砲組之頭を歴任し、元治元年(1864年)8月5日には諸大夫となった。この間に文久3年(1863年池田長発遣欧使節の目付および元治元年(1864年)8月3日には目付兼英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かなかった。元治2年(1865年)2月22日には世子のまま大目付就任。のちの慶応2年には京都にて外国奉行に就任した。(同年10月~慶応3年(1867年)6月29日、勘定奉行兼任)。その後外国総奉行(慶応3年(1867年)10月~慶応4年(1868年)2月9日、若年寄並兼務)を歴任した。
慶応3年(1867年)、小栗忠順などと共に兵庫港開港に備え商社を設立して富国強兵化に努めたが、反面長州藩処分は強硬論者だった。鳥羽・伏見の戦いでは副総督として幕軍を指揮した〔主戦派であったため、徳川慶喜には内証で大坂より出立され大坂城に取り残された。大坂城より出て加太浦にて「富士山」に乗船を試みたが叶わず。「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会(会津藩)・桑(桑名藩)等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」『徳川慶喜公伝』〕。慶応4年(1868年)2月9日徳川慶喜より鳥羽・伏見の戦いを指揮した老中格松平正質、若年寄並竹中重固らとともに免職・登営禁止の命を受けた。のちにアメリカ船でアメリカに政治亡命した。明治2年(1869年)6月17日のサンフランシスコ・クロニクル紙面に彼の記事がある。30ヶ月の亡命生活を送った。その後日本に帰国。墓所は東京都杉並区高円寺の長龍寺(埋葬当時は市谷田坂)。
旗本としては異例の若年寄にまで昇進した人物であるが、慶応4年(1868年)2月に御役御免になるまで部屋住のままであった。〔小川、1720-1721頁〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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