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塚原 直貴(つかはら なおき、1985年5月10日 - )は日本の陸上競技選手で、専門は短距離。 == 経歴 == 長野県岡谷市出身。東海大学付属第三高等学校、東海大学を経て2008年富士通に入社。富士通陸上競技部所属。 2003年のインターハイでは100mと200mでの2冠を達成した。2006年の関東インカレでは高平慎士と争い、100m・200m共に同タイム着差ありの2位となる。また、その年の日本選手権100mでは優勝し、2008年まで3連覇を達成した。2009年の日本選手権は準決勝での怪我のために決勝は棄権し、4連覇は逃した。 第15回アジア競技大会(カタール・ドーハ)では男子100mで銀メダル、男子4×100mリレーでも銀メダルを獲得した。 2007年大阪世界選手権日本代表、2008年北京オリンピック日本代表に選出される。 2007年、初めて出場した世界選手権は100m1次予選を10秒20(-0.1)の自己ベストで通過するも、2次予選では10秒31(-0.3)とタイムを落とし、準決勝に進出できる組4着と0秒01差の組5着に終わった。4×100mリレーでは1走を務め、予選で38秒21、決勝で38秒03のアジア記録(当時)をマークして5位入賞に貢献した。世界選手権の2週間後に行われたトワイライト・ゲームス100mでは日本歴代6位(当時)の10秒15(+0.6)をマークした。 2008年、北京オリンピック陸上男子100m準決勝進出。オリンピック同種目の準決勝進出は、2000年シドニーオリンピックの伊東浩司以来8年ぶり。 また、陸上男子4×100mリレーの第一走者〔第1走者:塚原直貴、第2走者:末續慎吾、第3走者:高平慎士、第4走者:朝原宣治〕 として決勝レースに出場し、銅メダルを獲得した。これは、日本選手の陸上トラック種目における1928年アムステルダムオリンピックの女子800m銀メダルの人見絹枝以来80年ぶり、男子では史上初のメダル獲得となる。 2009年、ジャマイカ式走法を取り入れて好記録を残す。5月のIAAFグランプリ大阪大会100mで日本歴代5位タイ(当時)の10秒13(+0.8)をマークすると、6月の日本選手権100m予選で日本歴代4位(当時)の10秒09(+1.8)をマークし、日本人4人目の10秒0台に突入した。準決勝でも追い風参考記録ながら予選と同じ10秒09(+2.4)をマークするも、決勝は左大腿二頭筋腱炎のため棄権。日本選手権以外の成績も評価されて8月のベルリン世界選手権の日本代表に選出された。2回目の出場となった世界選手権は100m2次予選を10秒15(+0.4)で通過し、北京オリンピックに続き世界大会の100mで2大会連続の準決勝進出、世界選手権の同種目では井上悟、朝原宣治に続く日本人史上3人目の準決勝進出者となった。準決勝は10秒25(-0.2)とタイムを落として組最下位で決勝進出はならなかったが、4×100mリレーでは2走を務めて世界選手権最高順位となる4位入賞に貢献した。 2010年、4月に単身で渡米し、タイソン・ゲイのコーチを務めるブラウマンの下で1ヶ月間トレーニングを積んだ。6月の日本選手権100mでは2大会ぶりの優勝を目指すも江里口匡史に敗れ2位。11月の広州アジア競技大会は直前にけがをして欠場した。 2011年、2月下旬に右アキレス腱を部分断裂した影響で日本選手権を欠場し、3大会連続の世界選手権出場は成らなかった。 2015年、4月19日の織田記念国際GP100mにおいて桐生祥秀と同着の2位に入り、この結果を受けて5月に開催される第2回ワールドリレーズ(バハマ・ナッソー)の4×100mリレー日本代表に選出された。しかし、現地入りしてから脚を痛めたため、久しぶりの世界大会は出場なしに終わった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塚原直貴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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