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塚廻り古墳群(つかまわりこふんぐん)は、群馬県太田市竜舞字塚廻りをはじめ5つの小字に分布する古墳群である〔大塚初重・小林三郎・熊野正也 編『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年、373-378頁。〕。所在する古墳のうち、4号墳は群馬県の史跡に指定され、古墳公園として復元整備されている〔〕。また古墳群から出土した埴輪は「上野塚廻り古墳群出土埴輪」の名称で一括して重要文化財に指定されている〔上野塚廻り古墳群出土埴輪 国指定文化財等データベース 〕。 渡良瀬川によって形成された標高30m前後の広大な沖積平野中に位置する。1997年県営圃場整備事業に際し、水田下より発見された。東西300m、南北400mの範囲に帆立貝形古墳4基(1・2・3・4号墳)、円墳3基(5・6・7号墳)が分布する。 元来、この地は小河川が乱流する起伏に富んだ地形を呈しており、本古墳群も南に延びる馬の背状の低台地先端部に立地する。これが渡良瀬川の沖積作用により一面平坦化され、古墳群が埋没したのは奈良時代頃と思われる。 == 古墳 == 1号墳は全長26.1m、後円部径18.8m、前方部幅10.8mを測る帆立貝形古墳。墳丘と相似形の周堀を有し、周堀を含めた主軸全長は34.1mを測る。墳丘には円筒埴輪がめぐり、前方部の円筒埴輪列の内側を中心に形象埴輪群も配置されていた。形象埴輪には人物6・大刀4・靫2がある。内部施設は後円部に位置し、墳丘の主軸と直交して置かれた箱形石棺と推定される。石棺部は削平され堀方と石棺床面に敷かれた粘土層を残すのみである。副葬品はわずかに金環と水晶製算盤玉だけが検出され、その他の遺物も土師器坏身1、須恵器甕1のみである。 2号墳は全長24m、後円部径19m、前方部幅8mを測る。周堀を有し、それを含めた主軸全長は28mとなる。埴輪は円筒埴輪のほかに盾1がある。 3号墳は全長23.6m、後円部径16.7m、前方部幅7.1mを測り、墳丘の相似形の周堀がめぐる。周堀を含めた主軸全長は31.4m。埴輪には円筒埴輪と形象埴輪(人物10・盾3・大刀4)がある。 4号墳は調査古墳の中で最も良く原状をとどめ、全長26.1m、後円部径18.8m、前方部幅10.8mを測る帆立貝形古墳で、墳丘と相似形の周堀を有する。周堀を含めた主軸全長は31.4m。墳丘には埴輪列がめぐり、円筒埴輪269(普通253・朝顔16)、形象埴輪35(人物14・家1・盾3・大刀5・馬2など)が検出された。内部施設は後円部に築かれた2基の箱式石棺である。1号石棺は後円部中央よりやや南東寄りに位置し、堀方と石棺床面に敷かれた粘土層が検出された。石棺の規模は長辺2.2m、短辺0.5mと推定される。2号石棺は後円部北側の円筒埴輪列を壊して構築している。長辺2.7m、短辺1.3mの堀方の中に割石を用いて箱式石棺を築き、その上を厚さ5~10cm粘土で被覆している。1・2号石棺からは共に副葬品は検出されなかった。埴輪以外の出土遺物は土師器坏3のみである。 本古墳群の築造過程は、埴輪以外の出土遺物が極めて少ないため詳細は明らかで無いが、1号墳の須恵器、4号墳の土師器は6世紀初頭から中葉の様相を示しており、短期間に群形成がなされたと思われる。また、墳丘は帆立貝形を呈するものの規模の点では、同時代の前方後円墳とはかなりの隔たりがある。このようなことを勘案すれば、本古墳群は初期群集墳の一形態と理解される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塚廻り古墳群」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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