|
塚田 正夫(つかだ まさお、1914年(大正3年)8月2日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、将棋棋士。名誉十段。日本将棋連盟会長(1974年 - 1976年)。勲四等旭日小綬章受章(追贈、1978年)。紫綬褒章受章(1975年)。花田長太郎九段門下。棋士番号は11。東京都文京区出身。 ==人物== 1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。翌年は大山康晴の挑戦を退けて防衛したが1949年に木村に敗れて失冠。この名人戦の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了が話題となった。 一方、九段戦(のちの十段戦、現在の竜王戦)では3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1973年に「名人1期、その他のタイトル3期で九段」と規約が改正された際にまだ現役であったにもかかわらず九段に昇段した記録がなく、段位としては八段のままである(ただし、岩波新書の大山康晴「昭和将棋史」など、永世九段時代の塚田との棋譜の肩書を「九段 塚田正夫」と表記している例が将棋棋士の著書にも見られる)。 1960年の第1期王位戦、1962年の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。晩年には順位戦でB級1組に陥落していたが、塚田はB1に陥落して現役を続けた最初の名人経験者である(後に加藤一二三、中原誠、佐藤康光、丸山忠久、谷川浩司が記録)。 1974年に将棋連盟会長に就任、名人戦問題で揺れる将棋界の舵取りに尽力した。 詰将棋作家としても有名であり、プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在でもあった。また、氏の名前を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『近代将棋』誌で表彰していた(『近代将棋』は2008年に休刊)。 無口な人物で、酒を愛し、後輩の棋士が話しかけたところ「やあ君も一杯どうだい」とワンカップをすすめられたなどの逸話が残る。升田幸三は大の親友であった。 1977年12月、現役のまま死去。享年63。 没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年には実力制第二代名人を追贈される(升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため)。 河口俊彦は「純粋培養型の新人類棋士のはしりだった」と評している(「人生の棋譜 この一局」新潮文庫、P142)。河口は同書で、「将棋界では上位者が飲み代を持つのが普通だが、塚田は二十代の四段と飲むときでも割り勘だった」と書いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塚田正夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|