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塩川 長満(しおかわ ながみつ、天文7年(1538年) - 天正14年10月5日(1586年11月15日))は、戦国時代の武将。官途は伯耆守。姓は「塩河」とも。 == 生涯 == 天文7年(1538年)、摂津国の国人・塩川国満の子として誕生。母は継室の伊丹氏(龍照院)で、伊丹親興は従兄弟にあたる。 はじめ三好氏に属したが、永禄11年(1568年)、織田信長の上洛によりこれに従属。2万石を安堵された。同年8月、信長の野田・福島攻囲戦にも従っている。 天正元年(1573年)の室町幕府15代将軍・足利義昭と信長が対立すると、『尋憲記』に義昭に味方した松永久秀の与党に「シヲカワ」(正しくは「シホカハ」)が載せられていることから織田氏と敵対したようだが、天正3年(1575年)には京都相国寺に信長を訪問して馬を与えられているので、ほどなく信長に降ったと推測される。またこの頃、摂津の一職守護であった荒木村重に属したとみられる。 天正6年(1578年)に村重が謀叛を起こすとこれに加わらず、有岡城攻めに参加。天正8年(1580年)の花隈城攻めにも加わった。同年9月17日、対立する近隣の豪族・能勢頼道を多田に誘殺した。これは能勢が信長の召し出しに応じなかったためとされる。 また、娘が信長の嫡男・織田信忠に嫁いでおり、織田秀信の生母とする説もある。 天正9年(1581年)8月、他の摂津衆や池田恒興と共に、明智光秀の与力として中国地方出陣の命が下され、同年9月には鳥取城攻めに援軍を派遣している。天正10年(1582年)5月にも中国攻めの命が下るが、これは本能寺の変の勃発により中止、長満は羽柴秀吉に書状を出し、畿内の様子を注進。秀吉軍と合流して、山崎の戦いでは先鋒となって活躍した。 天正14年(1586年)、6月頃より重病となり、10月5日に病死(『高代寺日記』)。 長満には実子・愛蔵と養子・辰千代がいたが、後継者争いの末に愛蔵が跡を継いだものの、その冬のうちに塩川家は取り潰しになったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩川長満」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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