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増田盛次 : ウィキペディア日本語版
増田盛次[ました もりつぐ]

増田 盛次(ました もりつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。別名に宗重兵部大輔を称した。増田長盛の次男。兄に長勝、弟に新兵衛
== 生涯 ==
天正18年(1590年)、豊臣秀次に仕えて盛次と名乗る。豊臣秀吉と秀次の関係が悪化すると、文禄3年(1594年)秀吉の命によって徳川家康に仕えた。文禄4年(1595年)7月15日秀次が切腹すると大和郡山城で謹慎した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・長盛と共に西軍に付き大津城の戦いに参陣したという。戦後増田家は改易、長盛は流罪に処されたが、盛次と庶兄・長勝夫婦は叔父・増田長俊の養子となり連座を免れ、盛次は徳川家康、次いでその子である尾張藩主・徳川義直に仕える。長盛の家督は末弟の新兵衛が相続した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、戦功をあげた。
しかし豊臣恩顧としての心情から城方が勝つと笑い、寄せ手が勝つと苦い顔をしていたという。このことが冬の陣後家康の耳に達し「流石増田の子」と称賛される。その後、主君・義直の了解を得て尾張家を離れ、父・長盛とも相談の上大坂城に入城する。家康は長盛の監視をゆるやかにするようにと言ったと伝わる〔『駿河土産』巻三〕。
慶長20年(1615年)5月6日、父・長盛が元服の烏帽子親を務めた長宗我部盛親隊に属し、八尾に進軍。徳川方の藤堂高虎隊と交戦する。当初は優勢であったが、その後形勢は徐々に逆転し、長宗我部隊は撤退を余儀なくされた。盛次が殿軍を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の磯野行尚磯野員昌の孫)に討ち取られた。享年不詳。その討死は「はれなる」と称された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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