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士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。他にも藩に属する人間も士族とされており、東芝創業者田中久重が一例に挙げられる。 == 概要 == 1869年(明治2年)の版籍奉還の直後の明治2年旧暦6月25日(西暦1869年8月2日)、明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた(明治2年行政官達第576号)。士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分であった足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた一方で、中間などの武家奉公人は卒族に編入された。政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした。 さらに明治2年旧暦12月2日(西暦1870年1月3日)、かつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された(明治2年太政官布第1004号)。 明治3年旧暦12月10日(西暦1871年1月30日)には、華族とみなされなかった多くの地下家、公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。その後、寺社の寺侍なども段階的に士卒族へ統合された。その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。 1872年(明治5年)に編製された戸籍「壬申戸籍」においては族籍の項目が設けられた。当時の全国集計による士族人口は、全国民の3.9%を占める25万8952戸、128万2167人であった。また、卒族人口は全国民の2.0%を占める16万6873戸、65万9074人で、士族・卒族・地士〔地士は高松藩の郷士階級に与えられた固有の族称で、『藩制一覧』では士族扱いとなっている。明治5年に646戸、3316人(0.01%)。〕の人口は全国民の約6%を占めた(詳しくは壬申戸籍の項目を参照)。 明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)、卒族の称が廃止された。卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入されることとなった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍することとなった(明治5年太政官布第29号)。 明治5年初頭の時点で卒族だった者の9割近くは、士族に移行している。明治8年までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。明治9年の時点で、士族は40万8861戸 189万4784人を数え、全国民の5.5%を占めた。 なお、法的には士卒族として扱われなかった、陪臣や武家奉公人等を含む旧武士階級の総人口については諸説あるものの、例えば士族授産の対象となった旧武家人口がほぼ士族人口の倍であったことから総人口の10.4%程度であるとする試算〔我妻東策, 『明治社会政策史』, 三笠書房, 1940年.〕や、『藩制一覧』掲載の人口と石高比から約336万人であるとする試算〔安田三郎, 『社会移動の研究』, 東京大学出版会, 1971年.〕がある。旧武士出身者の平民籍取得の経路として、陪臣や武家奉公人の例以外にも、例えば以下のような事例があげられる。 * 明治5年の卒族廃止に伴うもの * 帰農帰商の推奨(明治3年から明治4年にかけて、明治政府は帰農帰商出願者に一時賜金を下府し、民籍取得を推奨した) * 刑罰としての除籍 * 脱藩・浪人(江戸時代の浪人に加え、戊辰戦争や戊辰戦争後の幕府方の処分・改易により発生したもの) * 手続きの不備 明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、4代程度にわたって兄弟姉妹、配偶者、それぞれの子供、子孫ら家族すべてが記されていた。男子は結婚しても兄弟すべての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍することはなかった。分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。大正時代の平民宰相原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「士族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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