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士林派(しりんは)は、李氏朝鮮の党派の一つ。世祖の功臣である勲旧派、戚臣(外戚)との対比で使われる事が多い。 == 歴史 == === 士林派の台頭と士禍 === 士林派は元々は朱子学を修めた新興の科挙官僚であり、大地主が中心の旧勲派に比べて、中小の在地両班がその中核を占めた。そのため朝鮮朱子学の発展原理である、朝鮮性理学が政治力学の根本にあった。初期の士林派も朱子学者・とその門徒達が中核を成していた。 成宗時代の最初の7年間は貞熹大妃による垂簾聴政が敷かれ、韓明澮と申叔舟などの元老大臣が国政の全決定権を握っていた。1467年の李施愛の乱で台頭した亀城君ら王族が1470年の事件により追放され、王族の政治への関与が禁止されると、勲旧派と戚臣が主要な政職を独占する事態となった。成宗は勲旧派達を牽制するために新興官僚である士林派を積極的に登用し、政治のバランスを取るようにしていった。 しかし、急速に台頭してきた士林派勢力に旧勢力は脅威を感じ、成宗の後に即位した燕山君の時代に入ると巻き返しを図り、それは士禍と言う形で現れる。1498年、金宗直の書いた世祖の王位簒奪批判の書面が引き金となって、多くの士林派が死刑や流罪となった(戊午士禍)。また燕山君の異常な性格もあいまって、1504年には生母廃妃尹氏毒殺の件に絡んで士林派と勲旧派数十人が処刑された(甲子士禍)。燕山君が暴虐と贅沢の限りを尽くした末に1506年に勲旧派の・・らによる宮中クーデター(中宗反正、ko、別名:朴元宗の乱)によって王位を剥奪された。 その後に即位した中宗は朝廷での主導権を握るに至らず、即位に貢献した功臣・勲旧派・戚臣が勢力を握った。1510年頃には功臣勢力の勢いも弱まってきたため、中宗は1515年に新士林派勢力の趙光祖を登用し、勲旧派に対抗した。しかし趙光祖はあまりにも過激な改革を行ったために失敗に終わり、1519年に勲旧派によって趙光祖などの新士林派勢力の多くは死刑・流刑にされた(己卯士禍)。そして1521年には己卯士禍の余波で残った士林派の多くも粛清され、その後の政局は諸派入り乱れての混乱状態に陥った。 1544年、中宗が亡くなって仁宗が即位すると士林派の名誉回復が行われたが、翌年仁宗が没したためその志は遂げられないまま終わった。仁宗の次に明宗が立ったが、11歳で即位したためその後継者の座を争って激しい派閥争いが繰り広げられた。外戚で文定王后(中宗の3番目の妃)の次兄である尹元衡が権力を握ると、反対勢力の粛清を始め、それに多くの士林派も巻き込まれた(乙巳士禍)。明宗の時代には外戚・小尹派による専横が行われた。1567年、明宗が33歳で亡くなると、明宗には嫡子がなかったため中宗の孫である宣祖が即位した。宣祖により外戚勢力は一掃され、士林派が政権を担うことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「士林派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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