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戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。 == 概要 == 日本の明治維新に範を取って上からの改革により清朝を強国にするという変法自強運動の集大成。あまりに短い改革の日数をとって「百日維新」ともいう。 これに先立って、1861年から30年以上洋務運動が行われ清朝の国勢は一時的に回復したが、旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋務運動は日清戦争敗北により限界を露呈。 変法の法とは、法律だけでなく、政治制度も含めた統治機構全体を意味する。変法とは、それまでの伝統的な政治外交礼制などの大変革を指す。具体的には、科挙に代わる近代的学制・新式陸軍・訳書局・制度局の創設、懋勤殿の開設(議会制度の導入)など、主に明治日本に範をとった改革案が上奏・布告された。光緒帝は「西欧各国が500年で成したことを日本は20年余りで成し終えた。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を定める」と宣言した〔黄文雄 中国・韓国が死んでも教えない近現代史 p29〕。 戊戌変法は、康有為を中心とする一派と張之洞や文廷式、厳復といった政権内外の改革積極派が推進した。だが、次第に路線対立が深まり、康有為一派以外の人々が離反、急進的な改革による宮廷の混乱から保守派の西太后が力を増す。こうした中、変法派の一部は西太后を幽閉(ないし暗殺)して事態を打開しようと図る。当初は事の推移を静観していた西太后も、ここに至って戊戌の政変と呼ばれるクーデターを決行。光緒帝は監禁されて実権を失い、変法派の主要人物は処刑。変法運動は完全に挫折した。 統治機構の近代化により王朝を立て直すことに失敗、加えて義和団の乱後をめぐる清朝の醜態も加わり、1911年の辛亥革命への機運が高まる。 戊戌の変法は短命な改革だったが、実行されなかった各種改革案も、戊戌の政変を引き起こした西太后たちによって義和団事件後に再度取り上げられた(光緒新政)。また戊戌の変法では改革の際、実質的に政党の原型であった「学会」を各地に創設したり、プロパガンダに新聞を活用するなどの政治手法を積極的に中国に持ち込んだりした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戊戌の変法」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hundred Days' Reform 」があります。 スポンサード リンク
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