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外交革命[がいこうかくめい] 外交革命(がいこうかくめい、, )は、1756年に起こったヨーロッパの国際外交における重大な転換のことで、具体的には17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家とブルボン家が、七年戦争の前に同盟を結んだことを指す〔大野(1975)p.471〕。背景にはイギリスとフランスの200年間におよぶ世界的抗争(「第2次百年戦争」)と、ハプスブルク=ロートリンゲン家になってからのオーストリアと新興プロイセンとの抗争という、二つの対立軸がある。 == ブルボン・ハプスブルク両家の確執 ==
オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失った彼の娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ公女との再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたこと等から、両国の確執がはじまっている。 15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世とヴァロア家のフランソワ1世が対立している。16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まるとフランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は宿敵の関係にあった。フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていた。 17世紀前半の三十年戦争でも、フランスは旧教国でありながら反ハプスブルクの新教諸勢力とむすんだ。また、18世紀のスペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争でも両国はたがいに敵同士として戦った〔オーストリア継承戦争では、フランス・オーストリア両国の対立を軸にプロイセンがフランスと結んでオーストリアを攻撃、植民地でフランスと対立していたイギリスがオーストリアを支援するという関係が成立した。〕。
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