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外城制(とじょうせい)とは薩摩藩(鹿児島藩)が行った地方支配の制度〔薩摩藩による琉球王国支配体系はこれと異なる〕〔支藩である日向国宮崎郡佐土原藩の外城制は、農山漁村主要部や交通の要衝に設置された仮屋を中心としていた〕〔隣藩の人吉藩でも同様の制度が導入されていた。詳細は「人吉藩の略史」参照〕。1784年(天明4年)、この呼称を郷と改めた〔郷の表記は「○○郷」でほぼ統一されているが、外城の表記は文献により様々である。「○○外城」の例(『肝付町の文化財』2007年)もあれば「外城○○」(『宮崎県史 通史編 近世 下』2000年)の例もある〕。 == 概要 == 薩摩藩は1871年(明治4年)において、人口比で26%と武士率が高く〔この時期の全国平均が約5%〕、領内を区分し武士を分散定住させ、軍事ネットワークの一端とし、また、農山漁村や町場の支配の拠点とした。この制度を島津家当主の居城である内城〔島津氏の居城は1602(慶長7)年に鶴丸城へ移転〕に対して外城(とじょう)といい、近代以後の歴史用語として''外城制'' という。 外城制は、戦国期島津氏における地頭〔敵対した一族や土豪を討滅・追放した後の土地に設置された地頭と呼称される軍事・行政を担当する代官のことを云い、中世荘園における地頭とは異なる〕・衆中制〔地頭を配置した城塞に集住した武士身分戦闘員〕が変質したもので、領内各地の城砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で戦闘員となる役割を担った。戦国末期~織豊期に、外城区域内の複数の城砦に拠っていた形態から、区域内の中心的城砦の山麓の麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町へ集住する形態へ移行した〔現在でも出水麓や知覧麓の様に武家屋敷の面影を残している所もある〕。 ひとつの外城は数ヶ村を区域とし、中心村の城砦や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭仮屋を中心として麓集落が広がり武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し、外城士〔安永9年以降は郷士〕〔''薩摩藩家臣を参照''〕 と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である仮屋で行われたが、地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり〔要衝地の長島・甑島は地頭の赴任が継続して行われ、藩境の外城には地頭代を設置したり、中抑という役職を設置した外城も存在した〕、しだいに軍事的意義も薄れていき、やがて上級郷士(噯(あつかい)〔後に郷士年寄と改称〕、組頭、横目のいわゆる麓三役)が実質的支配にあたるようになった。 1878年(明治11年)の郡区町村編制法に基づき設置された戸長役場においても、行政区域の大部分が郷を単位としたものであり、1889年(明治22年)の町村制実施時もほぼそのまま村〔薩摩藩領では鹿児島・都城を除き、全て村として発足〕〔大規模な郷は当時の村としては面積広大・人口多(平成の大合併前の「町」にほぼ相当)であり、加世田・伊集院・市来・出水・国分・串良など分割された例がある〕〔宮崎県では郷内の飛地を解消するように編成された〕として引き継がれた。小規模な郷〔主に一か村で構成されていた郷(黒木・藺牟田・新城など)や人口僅少な郷(大村・高隈など)、および市部に至近な郷(永利など)。鹿児島県の基準は総人口12,000人以下の自治体が対象〕は1950年代の昭和の大合併で、大規模な郷〔例として薩摩郡では入来・樋脇〕も21世紀初頭の平成の大合併でそのほとんどが合併を経験したが、現代においても枕崎市〔町村制実施時(1889年)に鹿籠郷の範囲をもって東南方村が発足した後、1923年に町制施行し枕崎町と改称。市制施行は1949年。〕や長島町〔町村制実施時(1889年)に長島郷を東西に分割(西長島村→長島町・東長島村→東町)した後、2006年に合併。〕など、郷がそのまま行政区域に合致する自治体が現存する。'外城制'' という。 外城制は、戦国期島津氏における地頭〔敵対した一族や土豪を討滅・追放した後の土地に設置された地頭と呼称される軍事・行政を担当する代官のことを云い、中世荘園における地頭とは異なる〕・衆中制〔地頭を配置した城塞に集住した武士身分戦闘員〕が変質したもので、領内各地の城砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で戦闘員となる役割を担った。戦国末期~織豊期に、外城区域内の複数の城砦に拠っていた形態から、区域内の中心的城砦の山麓の麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町へ集住する形態へ移行した〔現在でも出水麓や知覧麓の様に武家屋敷の面影を残している所もある〕。 ひとつの外城は数ヶ村を区域とし、中心村の城砦や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭仮屋を中心として麓集落が広がり武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し、外城士〔安永9年以降は郷士〕〔''薩摩藩家臣を参照''〕 と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である仮屋で行われたが、地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり〔要衝地の長島・甑島は地頭の赴任が継続して行われ、藩境の外城には地頭代を設置したり、中抑という役職を設置した外城も存在した〕、しだいに軍事的意義も薄れていき、やがて上級郷士(噯(あつかい)〔後に郷士年寄と改称〕、組頭、横目のいわゆる麓三役)が実質的支配にあたるようになった。 1878年(明治11年)の郡区町村編制法に基づき設置された戸長役場においても、行政区域の大部分が郷を単位としたものであり、1889年(明治22年)の町村制実施時もほぼそのまま村〔薩摩藩領では鹿児島・都城を除き、全て村として発足〕〔大規模な郷は当時の村としては面積広大・人口多(平成の大合併前の「町」にほぼ相当)であり、加世田・伊集院・市来・出水・国分・串良など分割された例がある〕〔宮崎県では郷内の飛地を解消するように編成された〕として引き継がれた。小規模な郷〔主に一か村で構成されていた郷(黒木・藺牟田・新城など)や人口僅少な郷(大村・高隈など)、および市部に至近な郷(永利など)。鹿児島県の基準は総人口12,000人以下の自治体が対象〕は1950年代の昭和の大合併で、大規模な郷〔例として薩摩郡では入来・樋脇〕も21世紀初頭の平成の大合併でそのほとんどが合併を経験したが、現代においても枕崎市〔町村制実施時(1889年)に鹿籠郷の範囲をもって東南方村が発足した後、1923年に町制施行し枕崎町と改称。市制施行は1949年。〕や長島町〔町村制実施時(1889年)に長島郷を東西に分割(西長島村→長島町・東長島村→東町)した後、2006年に合併。〕など、郷がそのまま行政区域に合致する自治体が現存する。' という。 外城制は、戦国期島津氏における地頭〔敵対した一族や土豪を討滅・追放した後の土地に設置された地頭と呼称される軍事・行政を担当する代官のことを云い、中世荘園における地頭とは異なる〕・衆中制〔地頭を配置した城塞に集住した武士身分戦闘員〕が変質したもので、領内各地の城砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で戦闘員となる役割を担った。戦国末期~織豊期に、外城区域内の複数の城砦に拠っていた形態から、区域内の中心的城砦の山麓の麓(ふもと)集落と呼ばれるミニ城下町へ集住する形態へ移行した〔現在でも出水麓や知覧麓の様に武家屋敷の面影を残している所もある〕。 ひとつの外城は数ヶ村を区域とし、中心村の城砦や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭仮屋を中心として麓集落が広がり武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し、外城士〔安永9年以降は郷士〕〔''薩摩藩家臣を参照''〕 と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である仮屋で行われたが、地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり〔要衝地の長島・甑島は地頭の赴任が継続して行われ、藩境の外城には地頭代を設置したり、中抑という役職を設置した外城も存在した〕、しだいに軍事的意義も薄れていき、やがて上級郷士(噯(あつかい)〔後に郷士年寄と改称〕、組頭、横目のいわゆる麓三役)が実質的支配にあたるようになった。 1878年(明治11年)の郡区町村編制法に基づき設置された戸長役場においても、行政区域の大部分が郷を単位としたものであり、1889年(明治22年)の町村制実施時もほぼそのまま村〔薩摩藩領では鹿児島・都城を除き、全て村として発足〕〔大規模な郷は当時の村としては面積広大・人口多(平成の大合併前の「町」にほぼ相当)であり、加世田・伊集院・市来・出水・国分・串良など分割された例がある〕〔宮崎県では郷内の飛地を解消するように編成された〕として引き継がれた。小規模な郷〔主に一か村で構成されていた郷(黒木・藺牟田・新城など)や人口僅少な郷(大村・高隈など)、および市部に至近な郷(永利など)。鹿児島県の基準は総人口12,000人以下の自治体が対象〕は1950年代の昭和の大合併で、大規模な郷〔例として薩摩郡では入来・樋脇〕も21世紀初頭の平成の大合併でそのほとんどが合併を経験したが、現代においても枕崎市〔町村制実施時(1889年)に鹿籠郷の範囲をもって東南方村が発足した後、1923年に町制施行し枕崎町と改称。市制施行は1949年。〕や長島町〔町村制実施時(1889年)に長島郷を東西に分割(西長島村→長島町・東長島村→東町)した後、2006年に合併。〕など、郷がそのまま行政区域に合致する自治体が現存する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「外城制」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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