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多田 政一(ただまさかず、1911年 - 1998年)は、医学者、哲学者、理学者、NPOユー・アイ・クラブの創設者、第一酵母株式会社の創業者である。 == 経歴 == === 綜統医学の提唱と普及 === 1911年、大阪府大阪市にて生まれる。父は、漢学者の多田北溟。 中学4年の折、結核を発病。医者にかかるも一向に回復しなかったことから、局所のみの治療を行う西洋医学(現代医学)に疑問を抱き、医療が全体観によって組みなおされることの必要性を実感する〔多田政一『綜統医学提唱論』日本綜統学術研究院、1935年、5-6頁。〕。また、このできごとにより高校時代から医学を学び始めるが、西洋医学の立場は対症療法であると感じ、医学を根本から洗いなおすべく生物・物理学への道へ進むことを決意〔多田政一『21世紀への健康法』YOU・I・クラブ、1975年、276頁。〕。東京帝国大学理学部動物学科に進学し、生理学一般を学ぶ。医学部生理学教室の橋田邦彦教授のもとにも出入りし、師事した。また、動物学科の同級生であった八杉龍一(生物学史家、東京工業大学教授、早稲田大学教授)、秋田泰一(東京大学教授、茨城大学学長)とともに、秀才三人衆として、3人とも名前の終りが一だったことから「三一」と呼ばれた。 在学中には生理学を学ぶと同時に、子供の頃に父親から東洋哲学・東洋の学問を教育された影響もあり〔太田竜『日本の食革命家たち』柴田書店、1984年、176-177頁。〕、人間が本来持っている自然治癒力を最大限に発揮させる東洋医学に可能性を見出す。その後1933年、大学3年生の時に綜統医学連盟を設立。西洋医学と東洋医学を総合・統一的にとらえた独自の医学、綜統医学(現在の生活医学)を提唱する。綜統医学の推薦者には、勅選貴族院議員の江口定条、逓信大臣等を務めた小泉又次郎、司法大臣・鉄道大臣等を務めた小川平吉、商工大臣を務めた俵孫一、厚生大臣・拓務大臣を務めた秋田清、内務大臣・文部大臣等を務めた水野錬太郎、警視総監・宮城県知事等を務めた丸山鶴吉、同じく警視総監を務めた赤池濃、日本大学教授の高須芳次郎らが名を連ねた〔多田政一述『綜合医学建設の提唱』綜合医学研究会、1934年、2-3頁。〕。また、三和銀行の当時の頭取であった中根貞彦の依頼により、三和銀行の健康相談役を務めたほか、綜統医学に傾倒した人々の招きにより全国で講演活動を展開した。支持者の中には陸軍軍人の石原莞爾もおり、日本国民の保健と生活について政一に指導を仰いでいた。 1945年、綜統医学を達成するには大衆の理解が必要と青年運動を行うべく伊豆韮山に「綜統学術院」を創立。資本主義と社会主義を超えた「第三民主同盟」を結成し、政治活動を展開した〔太田竜『日本の食革命家たち』柴田書店、1984年、176頁。〕。また、並行して綜統医学の研究も進め、その功績が認められてアメリカ国際アカデミー名誉会員、ドイツ(心理学)アカデミー名誉会員、スペインビサンチン大学名誉客員、カナダ国際アカデミー名誉会員〔多田政一『日本の無血革命計画』日本綜統学術院、1959年、3頁。〕などに選ばれた。 1950年、綜統学術院・第三民主同盟を発展させたユー・アイ・クラブを発足(1999年にNPO法人化)。綜統医学の指導と深化に努めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多田政一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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