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多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 2006年9月1日〔『日本プロ野球偉人伝 vol.2』73頁、ベースボール・マガジン社、2013年〕)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手。 == 来歴・人物 == 高松商業では当初捕手であったが、上級生になると強肩を見込まれて投手にコンバートされた〔『巨人軍の男たち』81頁〕。また、2年生のに春・夏の甲子園に連続出場、夏はベスト8まで進出〔森岡浩編著『プロ野球人名事典 1999』日外アソシエーツ〕。3年生のにも春の甲子園でベスト8まで進んでいる。 に投手として東京巨人軍に入団。翌の途中に捕手兼任となり、には高校の1年後輩であった楠安夫の応召を受けて正捕手となる。本職が捕手ではなかったために、盗塁を刺すときの送球の加減ができず遊撃手白石敏男のグラブが送球の勢いに負けて後退してしまい走者にタッチできずに盗塁を許してしまったり、4月には1試合に2度の打撃妨害、2度のファールフライ落球を経験している〔『後楽園球場のサムライたち』85頁〕。同年11月に応召され姫路三八連隊に入隊。 戦後に職業野球が再開されると、早速の東西対抗戦に選ばれ東軍の第一捕手として出場する〔『後楽園球場のサムライたち』86頁〕。に再び巨人に入団し現役復帰を果たすと、再び正捕手となって全試合に出場する。しかし、になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。川崎徳次(24勝)に次ぐ12勝、防御率2.36(リーグ13位)の成績を残す。活躍のきっかけについて、投球時に身体が開き球離れが早くなってしまうことについて、偶然列車に乗り合わせた新田恭一に相談したところ、右足の踵に体重を乗せるべきとのアドバイスを受け、実践したところ球持ちが長くなり低めへの制球が非常に改善されたという〔『後楽園球場のサムライたち』90頁〕。その後まで主戦投手として4年連続二桁勝利を挙げ、は防御率3.34(リーグ9位)、は防御率2.91(リーグ5位)と2年連続して防御率ベスト10位に入った。 肩を痛め以降出場機会が減少する。しかし、同年の南海との日本シリーズにあたって、投手も捕手も経験がありチーム全般を観察できるとして、多田は先乗りスコアラーとして対戦する南海の試合を偵察。柚木・江藤・中原らエース級投手の配球や投球時の癖、山本・蔭山・木塚・飯田ら百万ドル内野陣の盗塁時のタイミングの取り方などを記載した「多田メモ」を作成する。巨人は日本シリーズでの南海の盗塁を僅か5個に抑えるなど、このメモが巨人の日本一達成に大いに役立ったという。〔『巨人軍の男たち』82頁〕〔『後楽園球場のサムライたち』96頁〕 に芥田武夫監督に豊富なキャリアを買われて近鉄パールスに移籍し〔『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』49頁〕、同年は原勝彦と交互にマスクを被って捕手として81試合に出場するが、翌に引退。 引退後はに加藤久幸監督の下で近鉄の一軍投手コーチを、からまでは高松商業の先輩にあたる水原茂監督の下で東映フライヤーズの一軍投手コーチを務めた。東映では怪童・尾崎行雄を1年目から中心投手に育て、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。その後も手腕を発揮し、石川陽造・嵯峨健四郎・田中調・永易将之・宮崎昭二・森安敏明を主戦投手に育てている〔。その後、から2年間パ・リーグ審判員を務め、1970年に横浜市の橋本フォーミング工業に就職した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多田文久三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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