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多田銀山(ただぎんざん)は旧摂津国、現在の兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市の広範囲にわたり坑道が開堀されてきた銀山である。 主な鉱石は黄銅鉱、斑銅鉱、方鉛鉱、輝銀鉱および自然銀であり、鉱脈の成因は熱水鉱床である。 == 歴史 == 天平時代より銅山として開発され、このときの神教間歩から産出した銅は東大寺の大仏鋳造用に使用されたといわれるが記録に乏しい。奈良時代に皇朝十二銭の鋳銭材料を供給した銅山の記録があるが、畿内にも拘らず、ここに多田鉱山が登場していないことからこの時代の産出は疑わしい。源満仲が多田庄に隠棲して開発したとも伝えられる。産銅の確実な記録は鎌倉時代の長暦元年(1037年)、能勢採銅所が設けられた時期まで降る。 天正年間に入り、銀を産出するようになり豊臣秀吉の直轄領となった。ただし慶長3年(1598年)の豊臣氏への運上高は銀476枚(約76kg)であり、生野銀山の62,267枚(約10トン)には比べるべくもない量であった。このため関ヶ原の戦い以降も徳川家康は石見銀山および生野銀山のように天領としなかったといわれる。これは秀吉が地下奥深くの鉱脈を隠匿し将来の蓄財に備えた為であるとする、いわゆる埋蔵金説が存在するが、確証できる資料は存在しない。 しかし寛文年間に銀および銅の産出が急増するに至り銀山に代官所が置かれ、銀山村が形成され天領となり幕府の支配が強化された。寛文年間初頭には年間の産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。 これより前の寛永年間より南蛮吹による精錬が行われ、荒銅より灰吹銀が採取され、抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。 その後産出高は次第に減少し、宝永年間には年間銅14万斤(約84トン)前後、正徳年間には年6万斤(約36トン)前後となった。天保11年(1840年)、高槻藩の預り所となり、天保14年(1843年)に大坂代官所の支配となったが、弘化元年(1844年)、再び高槻藩の預り所となった〔小葉田淳 『日本鉱山史の研究』 岩波書店、1968年〕。 明治時代に入り、三菱が稼行し、昭和19年(1944年)には日本鉱業が買収し操業を続けたが、昭和48年(1973年)に閉山した。現在はマウンテンバイクの遊び場になっているという。 == 位置情報 == *多田銀銅山悠久の館 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多田銀山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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