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多羅尾氏(たらおし)とは、平安時代末期から江戸時代まで近江国甲賀郡信楽荘多羅尾で活躍した武家である。 == 歴史 == 13世紀末頃、前関白近衛家基が信楽荘小川に隠居、その子近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれたのが多羅尾氏の祖多羅尾師俊である(近衛家の落胤というのは確証のない一つの説)。師俊は多羅尾を支配するとともに領地を拡大し、勢力を信楽全体に広げた。 南北朝時代、多羅尾氏と並んで信楽で勢力を増していた鶴見氏と多羅尾氏が結んで、南朝方として行動したと思われる。 応仁の乱以前より、多羅尾は伊勢と京の交通の中継地だったため、多羅尾氏は足利義視が京から伊勢、伊勢から京に渡る時に同行した。さらに京から近衛政家が信楽に下向してきた際には多羅尾玄頻が信頼を得て信楽荘の支配を任されるよう契約を結んだ。このように代々多羅尾氏は京の貴族や将軍などの重要人物の警護を担っていたようだ。 その後、佐々木京極氏と佐々木六角氏との抗争に六角氏側として参加。多くの多羅尾の武士を戦死させているが六角高頼と将軍足利義尚の争いで鈎の陣で夜襲をするなど多羅尾光吉が活躍を見せた。光吉は自領では鶴見氏と抗争、鶴見氏を逐って多羅尾氏を信楽での主勢力とし、さらには近衛家をも京に返して守護受として完全独立を果たした。 1568年、多羅尾光俊は没落した六角氏を見限り織田信長に鞍替えした。しかし1582年に本能寺の変で信長が自害。堺に取り残された徳川家康は一旦陣容を整えようと近江路を通って三河へ帰る事にした。家康一行の先導の長谷川秀一は南近江において多羅尾光俊の所領を通り宿してほしいと願い出たところ、光俊は子の山口光広邸に迎え入れ(長谷川秀一と山口光広は懇意)、家康一行に従者50人を付け伊勢路を警護した。光俊はこの後、豊臣秀吉と家康との争いの際、浅野長政が伊勢に進軍してきた時に徳川方として浅野長政を夜襲で撃退し、和睦の条件として浅野長政から一人娘を光俊の三男の嫁として入れている。これが縁で豊臣秀吉に従うようになった。豊臣秀次が近江八幡に入った時に光俊は秀次を多羅尾で歓待。光俊の次男の娘「お万」を秀次の嫁として入れるのに成功した。この時多羅尾氏の領地は信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に8万石に達し、多羅尾光俊は多羅尾氏全盛時代を築いたのである。しかし前途洋々だと思われた多羅尾氏の将来は、お万の秀次への入輿が逆の結果を生む事になる。 聚楽第の秀次は秀吉の不孝を買われてしまい斬首された。お万も秀次の家族と同じく処刑され、連座の咎で多羅尾氏はことごとく改易となり、多羅尾氏は一瞬にして無職となってしまったのである。 1598年、秀吉が死去した後、大坂にいた徳川家康は多羅尾光俊の事を気にしていて、多羅尾で困窮している光俊の事を知った。家康は光俊・光太親子を旗本に取り立てた。光太は上杉景勝討伐・関ヶ原の戦い・大坂の陣に参戦。徳川幕府旗本領7000石に復活した。以来多羅尾氏は信楽代官領をはじめ代々近江・畿内の天領代官職を任されていった。地元では「多羅尾代官」と言われ、多羅尾の屋敷に「代官信楽御陣屋」を置いた。 多羅尾氏の子孫に1960年代、信楽町長になった人物がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多羅尾氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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