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大ケ塚寺内町(だいがつか じないまち)は、大阪府南河内郡河南町大ケ塚にある寺内町。 == 歴史 == *石川支流の梅川が東側を北方に流れる高台に位置し、水運により大坂に通じていた。南北朝時代には、楠木氏一族により城が築かれたという。 *地名は、室町時代後期に根来寺の僧兵の勢力が入り、この地に葬られた大河将盤の墓にちなみ、天文年間に芝地を開発した際に、村名を大河塚(だいがつか)と呼んだことに由来する。 *寺内町の形成は、永禄11年(1568年)に織田信長が河内に入り、根来衆が敗退した後、村人が自衛のために久宝寺顕証寺に依頼し、根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕証寺の通寺としたことにはじまる。その後、大念寺、善正寺が建立されるとともに、周辺や地方から人々が集まり、発展していった。 *江戸時代に入り、当初は幕府領だったが、1656年に京都所司代牧野親成領、1668年に幕府領、1669年に山城淀藩領、1723年に下総佐倉藩領、1745年に上知、1777年に常陸笠間藩領、1790年に幕府領と変遷し、幕末を迎えた。 *江戸時代には、水運により大坂と結ばれていたことから、河内木綿・米・菜種などの集散地として栄えるとともに、酒造業も盛んであった。1689年に儒学者の貝原益軒が立ち寄り、「民家五百廿(520)軒あり」と書き記している(南遊紀行)。また、商取引は、北国や長崎にまで及び、各地の藩札・手形も流通したという。文化面では、歌舞伎・相撲・人形浄瑠璃などの興行も盛んだったという。 *明治時代に入り、1898年に河陽鉄道の柏原-富田林が開通し、水運から鉄道輸送に切り替わると、交易の中心は大ケ塚から富田林に移っていった。 *現在も、数こそ多くはないものの、町家や白壁の土蔵などが残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大ケ塚寺内町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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