|
三輪 子首(みわ の こびと、生年不明 - 天武天皇5年(676年)8月)は、日本の飛鳥時代の人物である。大三輪真上田子人(おおみわのまかむだのこびと)、あるいは神麻加牟陀児首(みわのまかむだのこびと)ともいう。死後に大三輪真上田迎(おおみわのまかむだのむかえ〔旧仮名遣いでは「むかえ」が「むかへ」となる〕)と諡された。姓は君。冠位は贈内小紫。 672年の壬申の乱に際して、伊勢で大海人皇子(天武天皇)を迎え、後に大和への増援軍の指揮官の一人になった。 == 事績 == 壬申の乱の勃発時、三輪子首は伊勢国の介であったと推測されている。大海人皇子はまず美濃国で兵を集めさせ、自らは24日に大和国の吉野宮を発って東に向かった。25日に伊勢の鈴鹿郡に入ったところ、国司守の三宅石床、介の三輪子首、湯沐令の田中足麻呂、高田新家に出会った。そこで500人の兵を発して、鈴鹿山道を封鎖した。以上が『日本書紀』の説明で、500人の兵は三宅が連れてきたものと推測される。この後も伊勢国からは兵力が動員され、軍の一翼を担ったと考えられる。 子首はこの後、7月2日に美濃から倭(大和国)に向かう軍の指揮官になった。共に軍を率いたのは、紀阿閉麻呂、多品治、置始菟であった。倭に到着してから大伴吹負のもとで戦ったが、そこでの子首の行動については書紀に記載がない。 『続日本紀』大宝元年(701年)6月11日条によって、神麻加牟陀君児首が100戸を封じられたことが知られる。 天武天皇5年(676年)8月に大三輪真上田子人君が死んだ。天皇はこれを聞いて大いに悲しみ、壬申の年の功によって、内小紫の位を贈り、大三輪真上田迎君と諡した。迎とは、大海人皇子を鈴鹿で迎えたことによる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三輪子首」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|