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大中臣頼基[おおなかとみ の よりもと]
大中臣 頼基(おおなかとみ の よりもと、仁和2年(886年)頃?〔『和歌文学辞典』〕 - 天徳2年(958年)?)は、平安時代中期の歌人・貴族。備後掾〔『勅撰作者部類』では肥後守とする。〕・大中臣輔道の子。官位は従四位下・神祇大副。三十六歌仙の一人。 == 経歴 == 延長元年(923年)神祇少祐に任ぜられると、神祇権大祐・神祇権少副と神祇官の官人を歴任する一方、天慶2年(939年)には伊勢神宮祭主を兼ね、天慶4年(941年)従五位下に叙爵。 その後、天慶8年(945年)従五位上・神祇大副、天慶9年(946年) 正五位下と昇進し、天暦5年(951年)従四位下に至る。 天徳2年(958年)卒去〔『三十六人歌仙伝』『拾芥抄』〕。一説では、天暦10年(956年)卒去で享年73とする〔『中臣氏系図』〕。最終官位は祭主従四位下行神祇大副。 大中臣氏は代々祭祀を掌る家系であるが、同じく三十六歌仙の一人で梨壺の五人にも数えられる子息の能宣を始めとして、輔親・伊勢大輔へと連なる大中臣氏における歌人の祖となる。宇多上皇の信任が厚く、『大井川行幸和歌』や『亭子院歌合』への参加のほか、屏風歌・賀歌などへ進詠した歌が多く残されている。『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に10首入集〔『勅撰作者部類』〕。家集に『頼基集』がある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大中臣頼基」の詳細全文を読む
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