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大久保一丘 : ウィキペディア日本語版
大久保一丘[おおくぼ いっきゅう]
大久保 一丘(おおくぼ いっきゅう、生年不明 - 安政6年11月10日1859年12月3日))は、日本江戸時代後期から末期にかけて活動した絵師。諱は好古、好徳。は敏夫。通称は惣次郎。別号に伯隣、王江蘋。
遠江国横須賀藩御用絵師として活躍した地方画家であるが、20点ほど残る「真人図」と称される洋風人物画で後世の注目を集めた。
== 略歴 ==
生まれた歳は不明だが、天明年間頃だと推測される。作画期は文化から安政年間、横須賀藩(現在の静岡県掛川市)主・西尾忠善に召され、お抱え絵師として活躍した。遺品の大半は円山・四条派を基本とし、中には狩野派大和絵、或いは琳派風の作品もある。しかし一方で、司馬江漢の『吉野紀行』に一丘の名が記されていることから、江漢に学んだ形跡が見られ、桂川甫周門下の蘭学者高森観好と交流、一時養子になっている。安政6年11月10日死去。戒名は等円院一丘露覚居士。享年54とある〔『安政文雅人名録』 安政7年(1860年)2月以降刊〕が、そうすると文化4年(1807年)の年記がある作品が残ることと矛盾する。これは息子の大久保一岳(一世)の没年と混同したためだと見られる。墓は木挽町三丁目の天徳寺中寶瑞院とある〔が、早くから無縁仏扱いを受けたらしく現在墓石は残っていない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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