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大伴安麻呂 : ウィキペディア日本語版
大伴安麻呂[おおとも の やすまろ]
大伴 安麻呂(おおとも の やすまろ、生年不明 - 和銅7年5月1日714年6月21日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代の人物。、後に宿禰大納言大伴長徳の六男。大納言兼大将軍正三位従二位
672年壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者になった。兄大伴御行の死後、702年参議として公卿に列し、705年大納言になった。
== 天武・持統朝 ==
壬申の年(672年)の6月、大海人皇子が近江の朝廷に対して兵を興すため東国に向かうと、倭(大和)の自宅にいた大伴吹負は皇子のために同志を募り、「一、二の族および諸豪傑」あわせて数十人を得た。「一、二の族」の中に、大伴安麻呂があったと思われる。吹負は29日に挙兵し、敵の内応によって倭京を奪取した。この成功を美濃国の不破宮に報じる使者に、大伴安麻呂、坂上老佐味宿那麻呂がなった。彼らは無事に任務を果たしたらしい。宿那麻呂はこの後とって返して吹負の下で戦ったが、安麻呂のその後の行動は不明である。同様に吹負のもとに返ったかもしれないが、別の方面にいたかもしれない。
天武天皇12年(684年)2月28日、広瀬王と大伴安麻呂が、判官録事陰陽師工匠を引き連れて畿内を回り、都の候補地を探した。大伴連安麻呂の位は、このとき小錦中であった。
天武天皇13年12月2日に、大伴連など50氏が宿禰の姓を与えられた。
朱鳥元年(686年)1月、新羅の使者金智祥を接待するために、川内王、大伴安麻呂、藤原大島境部鯯魚穂積虫麻呂が筑紫に使わされた。大伴宿禰安麻呂は、このとき直広参であった。
9月9日に天武天皇が死ぬと、28日にその殯宮で直広参の大伴宿禰安麻呂が大蔵のことを誄した。持統天皇2年(688年)8月10日、天武天皇の殯宮で、して慟哭する儀式があった。このとき大伴宿禰安麻呂がを述べた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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