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大伴 御行(おおとも の みゆき)は、日本の飛鳥時代中期から後期にかけての豪族。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。 『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」のモデルといわれる。 == 経歴 == === 天武天皇の時代 === 672年の壬申の乱では大海人皇子(後の天武天皇)側にたって戦ったが、具体的な活動内容は不明である。この乱では大伴馬来田が大海人皇子に従っておそらく美濃国まで行き、大伴吹負が大和国方面の軍の指揮をとる将軍になった。また、御行の弟の安麻呂の名が吹負挙兵直後の連絡の使者のうちに見える。御行も同族の一員として一部隊の指揮官になったものと考えられている。乱後、大伴御行は功績により100戸の封戸を与えられた〔『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条〕。『万葉集』で御行が「大将軍」と記されるのも、この乱で顕著な功績を立てたためではないかと推測する向きもある〔高島正人『奈良時代諸氏族の研究』、677頁。〕。一方で、御行の戦功はそれほどでもなく、彼に対する賞は吹負ら大伴氏全体の功に対する部分が大きいと見る説もある〔星野良作「壬申の乱と大伴連氏」、『壬申の乱研究の展開』、189-191頁。〕。 天武天皇4年(675年)3月16日に、小錦上大友御行は兵政官大輔に任命された〔このとき兵政官長には栗隈王が任命された〕。天武天皇13年(684年)12月2日に一族とともに宿禰の姓を与えられた。 天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打をして戯れた。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。大伴宿禰御行はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人のうちにあった。持統天皇2年(688年)11月11日、前年崩御した天武天皇が大内陵に葬られたとき、大伴宿禰御行は布勢御主人(阿倍御主人)とともに誄した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴御行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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