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大伴望多 : ウィキペディア日本語版
大伴馬来田[おおとも の まくた]
大伴 馬来田(おおとも の まくた、生年不詳 - 天武天皇12年6月3日683年7月2日))は、日本の飛鳥時代の人物である。名は望多望陀とも書く。姓は。大徳冠大伴咋の子。子に道足〔『続日本紀』の延暦元年(782年)2月3日条に記される大伴伯麻呂の死亡記事に、その祖が贈内大紫の馬来田で、父が道足であると記されており、この記事により、子に道足がいたことがわかる。〕・男人がいる。大紫位。
== 経歴 ==

=== 壬申の乱 ===
大伴氏は馬来田の兄長徳孝徳天皇につかえて重職にあったが、白雉2年(651年)に長徳が亡くなってから不遇であった〔田中卓「壬申の乱と大伴氏」67頁。〕。そのため壬申の乱の前に馬来田は病気を称して都から退き、弟の吹負とともに倭(大和国)の自宅にいた。彼等は次の天皇は吉野宮にいる大海人皇子(のち天武天皇)だろうと考えていた。
6月24日に大海人皇子が挙兵を決意して行動を起こすと、馬来田らは大海人皇子に味方することを決めた。吹負は大和に残って同志を募り、馬来田はまず吉野宮に行った。しかし大海人皇子は去った後で、馬来田は黄書大伴とともに皇子を追い、その日のうちに莬田(大和国宇陀郡)の吾城で追いついた。黄書大伴はこの日に倭京(飛鳥の古都)に使者にたって戻るところで、どの時点で馬来田と会ったかは『日本書紀』に明記されないが、大伴兄弟に事を知らせた当人である可能性が高い。
この後、吹負は大和方面の将軍として華々しい活躍をしたが、馬来田の軍功は伝わらない。戦場に立てば必ず指揮官のうちに名を挙げられたはずなので、馬来田は戦場に出なかったと推測できる。大海人皇子を補佐して後方にいたのであろう〔北山茂夫『天武朝』279頁注51。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大伴馬来田」の詳細全文を読む



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