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大国実頼[だいくにざねよりゆき]
大国 実頼(おおくに さねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。直江兼続の弟に当たる。 == 経歴 == 永禄5年(1562年)、樋口兼豊の次男として生まれる。幼名は与七。上杉謙信死後の御館の乱では上杉景勝方として戦う。戦後の天正10年(1582年)、景勝の命により天神山城主小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。高野山の『越後国供養帳』によると、実頼は天正13年(1585年)8月18日に亡くなった義母(重頼室)の供養を依頼している。 天正14年(1586年)、新発田重家討伐戦に参加し、新潟城を焼打ちする。豊臣秀吉の聚楽第新築のときには祝賀の使者を務めた。このとき、従五位下但馬守に任じられる(「御家中諸士略系譜」(『上杉御年譜』23所収)に記載されているのみであり、景勝の清華成以前に、その家臣が諸大夫成するのは原則的としてないことなど諸説有り)とともに、苗字を大国と改めた。以後、頻繁に上洛し、木戸元斎と共に連歌会に多く参加した。天正19年(1591年)には連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。 文禄3年(1594年)、景勝が上洛して聚楽第を訪れた際には、太刀一振・小袖10・銀子50枚を献上した。同年の『文禄三年定納員数目録』によると、村上城主として9,041石を知行し、542人の軍役を課せられている。なお実頼自身はこの時期に伏見の上杉屋敷に滞在し、村上城に春日元忠を城代として置いていた。 慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に付き従い、南山城代として2万1,000石を与えられた。また同年に高野山を参詣し、清浄心院に逆修や父兼豊の供養を依頼している。そして慶長5年(1600年)に景勝が徳川家康との戦に備えて会津に神指城を築城しようとしたとき、兄の兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げている。同年の関ヶ原の戦い後、出羽高畠城7,000石の城代となったが、城には移らず上洛して伏見に滞留した。慶長9年(1604年)、実兄直江兼続と本多政重との養子縁組に反対し、政重を迎えるために上洛した使者(西山庄左エ門宗秀、飯田実相坊元貞)を伏見宿の旅宿に招き、長刀を振るって殺害し、高野山に逃れた。以後、高野山に隠遁していたが兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去。享年61。また一説には慶長10年(1605年)、実頼の家臣・樋浦与兵衛が実頼の供養を依頼していることから、この頃に死去したともいわれる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大国実頼」の詳細全文を読む
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