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大塚丹後守[おおつか たんごのかみ] 大塚 丹後守(おおつか たんごのかみ、? - 慶長17年(1612年)7月)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。大塚三俊の父。次右衛門。津山藩家老。子に百々綱家(岐阜城主織田秀信家老。のち山内一豊家臣)の養子となった直安(百々出雲)など。 ==生涯==
===森家の外交官=== 美濃国の住人。諱は不明。最初は大塚次右衛門と名乗る。仕官した時期は定かでは無いが当時、東美濃を領していた森氏に仕え、森長可の代に台頭した。大塚は戦場で陣頭に出ることはあまり多くは無かったが弁舌に長けており、長可付きの側近として主に対外交渉などを担当している。 台頭を見せ始めたのが天正10年(1582年)の事で、4月に芋川親正の一揆が起きた時には異変にいち早く気付いて長可の元に参じ〔『森家系譜』〕、鎮圧に貢献した。また、6月に森家が信濃から撤退する際に高坂昌元ら信濃国人の煽動した一揆の大軍に退路を断たれた時には交渉を一任され、この席で大塚は与力でありながら長可を裏切った信濃国人達を糾弾するなど強気の交渉態度で望み「松本での人質の解放」と引き換えに「森軍への手出し無用」という条件を一揆衆に飲ませ一揆の進行妨害を止めさせた。しかし、猿ヶ馬場峠で暴発した一揆衆が森軍を襲撃するという事件が起こると大塚は2度目の交渉で一揆衆が約束を破った事を責め立てて、手出し無用である事を改めて強く約束させ以後、森軍は一揆から襲撃される事無く松本まで退避する事に成功している。最終的に森軍が松本で人質を始末した為に一揆勢を欺いた形となるが長可は「大塚の計略により金山軍は無事に川中島を抜けることが出来た」と交渉の成果を評価した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大塚丹後守」の詳細全文を読む
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