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大塚 徹(おおつか とおる、1945年4月18日 - )は、日本の元プロ野球選手。サンケイアトムズ・ヤクルトスワローズ、南海ホークスでプレーした。茨城県土浦市出身。茨城県立土浦第三高等学校卒業。息子は元東京ヤクルトスワローズの大塚淳。 == 来歴・人物 == 1964年、茨城県立土浦第三高等学校から国鉄スワローズに入団、入団当初は捕手だったが、その後外野手に転向〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、107ページ〕。ユーティリティープレイヤーとして、代打、守備固めなど、臨機応変に活躍。1971年には主に左投手対策として、60試合に先発出場を果たす。当て馬を使い、その後に大塚か左打者の内田順三が入る例が多かった。 1972年、南海ホークスに移籍、その明るい性格を野村克也兼任監督に買われ、出場機会は少なかったが、ヤジ将軍、ムードメーカーとして常時一軍に帯同していた〔。フロントから再三整理の対象とされていたが、野村監督がゲームに出ているほどの貢献をしているとしていて、年俸もレギュラークラスはあったといわれる。大量失点で負け越していた試合で、4番である野村監督が凡打で倒れ、ベンチに戻ってくると「監督ほどの高給取りでも打てないんだから、今日はもう気楽に行きましょう!」という元気よい大塚の声で、ベンチに笑いが起きた。あぶさんの初期(1巻~8巻)にしばしば登場している。 *選球眼がよく、サヨナラ押し出し四球の日本記録(通算4回)保持者である〔。 #アトムズ 1969年9月6日 対巨人23回戦(神宮)10回1死 投手:高橋一三 #ヤクルト 1971年5月26日 対巨人10回戦(神宮)9回0死 投手:高橋一三 #南海 1972年8月11日 対近鉄13回戦(大阪)9回1死 投手:神部年男 #南海 1973年8月7日 対日拓後期1回戦(大阪)9回2死 投手:新美敏 カウントはすべて2-3から。1.2.3は6球目ボールで四球、4は7球目。1は代走から守備(LF)に入り回ってきた打席、2.3.4は代打。 1975年、現役引退〔。引退後は地元土浦市中神立町でスナック「ダッグアウト」を経営〔。1991年、土浦リトルシニア を結成し監督に就任。 2008年、第6回KOALA CUP(オーストラリア:ゴールドコースト)において、東関東選抜チームを監督として率いて優勝。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大塚徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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