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大塚敬節[おおつか けいせつ]
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり〔 『日本近現代医学人名事典』〕明治33年(1900年)2月25日-昭和55年(1980年)10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞〔矢数道明「大塚敬節先生追悼特集に当って」『漢方の臨床』1980年、27巻、11号、p716〕〔。号は敬節(けいせつ)〔東亜医学協会「大塚敬節先生の略歴と功績」『漢方の臨床』1980年、27巻、11号、p717-721〕。〔号について、熊本大学医学部同窓会名簿にも敬節とある〕 ==高知・熊本時代== 大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に生まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。しかし、これにも興昧が持てず、熊本県立医学専門学校(現熊本大学医学部の前身)に入りなおした。熊本医専を選んだのは、入試に得意な国語と漢文があったのが当時の医学校では同校だけだったことによる。敬節は、辻潤に傾倒した文学青年で〔岡野勝憲「大塚敬節先生と私」『漢方の臨床』1980年、27巻、11号、p734〕、中学時代には高知新聞の新聞小説に当選し135回の連載を掲載されているが〔寺師睦宗「想い秋深く露は涙の如し:恩師大塚敬節先生の追憶」『漢方の臨床』1980年、27巻、11号、p738〕〔大島良雄ら「追悼特集2:昭和の浅田宗伯・敬節先生:大塚敬節先生の思い出を語る」『漢方医学』1980年、4巻、12号、p7-15〕、医専時代も文学に没頭し詩集などを発表している。医専卒業後、高知の武田病院に勤務したが、1923年秋に父が亡くなったため家業の医院を継ぐ〔町泉寿郎ら「蔵書からみた大塚敬節の学問と人」『日本東洋医学雑誌』2003年、54巻、4号、p749-762〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大塚敬節」の詳細全文を読む
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