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大塚有章 : ウィキペディア日本語版
大塚有章[おおつか ゆうしょう]
大塚 有章(おおつか ゆうしょう、1897年1月22日 - 1976年9月8日)は日本の社会運動家教育家
姉に河上秀(河上肇夫人)、妹に末川八重(末川博夫人)がおり、河上肇の義弟にあたる。戦前、日本共産党に入党して日本最初の銀行強盗事件である赤色ギャング事件の実行犯となる。戦後、日中友好運動に尽力し、日中友好協会(正統)の会長などを務める。また毛沢東思想学院を設立する。
== 人物 ==

1932(昭和7)年に日本共産党に入党する。大塚は早稲田大学卒業後、南満州鉄道の社員、ブローカー、銀行員を経て、初めシンパのカンパ集めをしていたが、やがて家屋資金局事業部担当になった。また義兄の河上肇の地下潜行時代をずっと世話することになる。
当時、日本共産党はスパイMこと飯塚盈延が組織の中心になっており、「非常時共産党」と呼ばれており、戦前期最大の党組織をつくり上げた。資金面にでもカンパによって月3万円を集めることができたという。従来、党の周辺にいた人々を入党させ、『赤旗』も6、7千部発行するにいたった。しかし、1932年3月に党の外郭団体の1つであった日本プロレタリア文化連盟(コップ)が手入れを受け、400名にのぼる検挙者を出した。
資金網をやられた党財政の困窮を救うための第1の手段は、金持ちの子弟のシンパに家の金を拐帯逃走させるというものであった。さらに、同年7月から家屋資金局と名称を変え、大塚を中心に「戦闘的技術団」(レーニン)をつくり、非合法活動のため、強盗、恐喝、詐欺、つつもたせ、エロ写真など考えられるかぎりの計画を立てた。実際に女子党員の色仕掛けに引っかかった農園経営者から600円を脅し取っている。彼らはまた、密輸業者からピストルを60丁以上購入し、東京白山の不動貯蓄銀行の襲撃を計画した。これは最初実行部隊のゴロツキに逃げられて失敗。2度目は自分たち自身で実行しようとしたが、これも失敗。武装蜂起のための武器購入に資金が早急に必要だった。
そして1932年10月6日、西代義治、中村隆一らを指揮し、東京大森の川崎第百銀行を襲撃、ピストルで行員を脅して3万円を強奪することに成功する。モーニングを着て、盛装した河上芳子、井上礼子を連れて、車に乗り強奪した金を運んだ大塚は、非常線に2回引っかかったにもかかわらず、無事通過することができた。
河上芳子は、河上肇の次女で大塚のハウスキーパーであり、井上礼子は京都市長であった井上密の次女で、実行犯の西代義治の恋人であった。
しかしピストル密売のルートから糸をたぐった警察が、彼らの上にいた今泉善一を逮捕し、大塚をはじめ家屋資金局のメンバーを次々と逮捕していった。大塚は逮捕されてから、スパイの手で党の秘密が警察に完全に握られていたことを知り、もはやこれ以上苦労をしても無意味であると思い、丁重に扱うことを条件に義兄である河上肇のアジトを教えて逮捕させた。
赤色ギャング事件は、権力による赤狩りに利用された一方、日本共産党指導部は、同事件関係者を「スパイ一味の挑発者」と規定した。赤色ギャング事件の実行責任者であった大塚は、同事件の責任転嫁をした党上層部への怒りと、部下に対する責任を痛感し、苦悩したという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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