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大多喜藩 : ウィキペディア日本語版
大多喜藩[おおたきはん]
大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。
== 藩史 ==
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが、遅くとも天正19年(1591年)までに居城を大多喜城に移した〔柴裕之「豊臣政権の関東仕置と徳川領国-本多忠勝の上総万喜入城を通じて-」(佐藤博信 編『中世房総と東国社会 中世東国論:4』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-739-7)〕。これが大多喜藩の起源である。忠勝は武田信玄織田信長にもその武勇を認められ、「家康に過ぎたる者」とまで言われた武将である。忠勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本隊に属して本戦に出陣し、武功を挙げたため、戦後に伊勢国桑名藩に移された。忠勝の本家は長男の忠政が継ぐ予定だったため、大多喜には5万石で次男の忠朝が残った。忠朝は領内の検地を実施して藩政の固めに専念したが、大坂夏の陣で戦死した。家督は甥の政朝が継いだが、元和3年(1617年)9月、播磨国龍野藩に移され、代わって武蔵国鳩ヶ谷藩から阿部正次が3万石で入った。元和5年(1619年)9月、正次は相模国小田原藩に移されたため、大多喜藩は一時的に廃藩となった。
元和9年(1623年)10月、青山忠俊徳川家光の勘気を被って老中を罷免され、武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石で大多喜に入る。寛永2年(1625年)、忠俊は改易され下総国網戸に蟄居となったため、大多喜藩は廃藩となった。
寛永15年(1638年)4月、武蔵国岩槻藩阿部正次の孫の正能が祖父から1万石を分与されて大多喜藩主として入った。正次の死後、岩槻はその子の重次が継いでいたが、重次は慶安4年(1651年)に徳川家光に殉死した。重次の死後、正能は6000石を分与されて1万6000石を領する大名となる。翌年、正能は武蔵国忍藩阿部忠秋の養子となったため、6000石を阿部定高に返還している。そして正能は寛文11年(1671年)5月25日、武蔵忍藩を継ぐこととなり、代わって大多喜には同年12月、岩槻藩主であった阿部正春が1万6000石で入った。正春は元禄15年(1702年)9月7日、三河国刈谷藩に移される。
入れ替わりで、徳川綱吉政権下で若年寄を務めていた稲垣重富が2万5000石で入る。ところがわずか21日間で、城地が狭すぎるという理由から下野国烏山藩に移った。代わって相模国玉縄藩から大河内長沢松平家松平正久が2万石で入ったことにより、ようやく藩主家が安定した。最後の藩主松平正質]は、幕末期に老中格・若年寄・奏者番などを歴任した。明治元年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍の指揮を任されたが、大敗を喫して江戸へ逃れた。その後、正質は戦犯として新政府から官位と所領の没収を宣告され、佐倉藩に幽閉された。大多喜城と領地は当初は佐倉藩、後に三河吉田藩の管理下に置かれていたが、請西藩や旧幕府部隊(撤兵隊・遊撃隊)などの誘いに応じなかったことが評価されて、同年8月に宥免された。翌年の版籍奉還で正質は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大多喜藩は廃藩となって大多喜県となった。その後、木更津県を経て千葉県に編入された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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