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大宰府(だざいふ)は7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され〔太宰府について記された全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例。8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているもの。 * 懐風藻…併用 * 唐大和上東征伝(淡海三船)…併用 * 入唐求法巡礼行記(円仁)…「太」のみ * 続日本後紀(藤原良房ほか)…「太」のみ * 文徳天皇実録(菅原是善ほか)…「太」のみ * 延喜式(藤原時平・紀長谷雄)…併用 * 倭名抄(源順)…「太」のみ 主に8世紀の大和朝廷内部で作られた史書だけが「大宰府」を使っている。 〕、現在でも地元は太宰府「だざいふ」を使っている。 == 名称 == 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。 『続日本紀』文武天皇4年(700年)10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。 大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡〔大宰府跡は、大野山南麓一帯の平野に東西24坊、南北23条の規模であり、北は大野城、南は基肆城、平野部の出入り口は水城で遮って防衛した都城跡である。〕は国の特別史跡〔1921年(大正10年)3月3日政庁の中心部だけ史跡指定、1953年(昭和28年)3月31日特別史跡指定、1970年(昭和45年)9月21日・1974年(昭和49年)6月25日蔵司(くらのつかさ)西側の木簡と築地が発見された地域が追加指定〕。 平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。〔『大宰府』と『太宰府』のちがいについて教えてください(太宰府市公式ホームページ) 〕 なお地元では、史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大宰府」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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