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尾形 藤吉(おがた とうきち、1892年3月2日 - 1981年9月27日)は、日本の騎手、調教師。 1908年より騎手となり、1911年からは騎手兼調教師として初代ハクショウ、アスコット、1936年より専業の調教師となってからは11戦無敗のクリフジ(JRA顕彰馬)、八大競走3勝を挙げ、日本馬としてはじめてアメリカの重賞競走を制したハクチカラ(同前)など数多くの名馬を手掛けた。日本中央競馬会(JRA)が発足した1954年以降だけでも年間最多勝を12回記録し、通算1670勝および東京優駿(日本ダービー)8勝をはじめとする旧八大競走39勝、重賞189勝(1932年以降)は史上最多勝利記録。さらに門下からはそれぞれJRA騎手顕彰者の保田隆芳、野平祐二、同調教師顕彰者の松山吉三郎ら数々の人材を輩出した。その幾多の功績により日本競馬界において「大尾形」と称される〔『優駿』2009年6月号、p.121〕。1964年黄綬褒章、1966年勲五等双光旭日章受章。2004年、調教師顕彰者に選出。同じくJRA調教師の尾形盛次は長男、尾形充弘は孫。 出生から1908年までは「大河原」姓であり、また1911年から1946年までは「尾形景造」と名乗っていたが、本項では統一して「藤吉」と記述する。 == 経歴 == === 生い立ち - 御料牧場へ === 1892年、北海道有珠郡伊達町の開拓農家に、大河原栄次郎・キク夫妻の次男として生まれる〔尾形(1967)pp.25-27〕。父方の大河原家、母方の尾形家は、双方とも亘理伊達家の旧臣であり、主君・伊達邦成に従って当地に入植していた〔。家では2頭の農耕馬を飼い、栄次郎はその手入れのすべてを自ら行う馬好きな人物だった(藤吉が3歳の時に死去)〔。藤吉も幼少より馬に親しみ、尋常小学校に入学してからは夏になると裸馬の背に立って乗り回し、友人らに「立ち乗りの藤ちゃん」とあだ名された〔。 高等小学校4年次であった1907年9月、異父弟が川遊びの最中に溺死する不幸に見舞われ、さらに10月には伊達町を大火が襲い、藤吉を消沈させた〔尾形(1967)pp.30-31〕。しかし翌11月、官営の新冠御料牧場に勤めていた大叔父・阿部哲三が火事見舞いに訪れると、藤吉はこれを新局打開の機会と捉え、自らを御料牧場へ連れていくよう哲三に頼んだ。すると好感を抱いた哲三も母キクの説得に努め、これを認められて藤吉は哲三と共に御料牧場へ移り、馬術見習生となった〔。牧場に入ってしばらくは雑用をこなしていたが、2カ月後に前担当者の過失から「豪サラ」の種牡馬ウヰリアムの乗り運動を新たに担当することになり、曲のある同馬とともに乗馬技術を磨いていった〔尾形(1967)pp.32-37〕。1908年には近隣の牧場から人馬を集めて行われる祭典競馬にも参加し、2戦1勝・2着1回の成績であったという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾形藤吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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