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大山 泰彦(おおやま やすひこ、1942年7月2日 - )は、日本の空手家で国際大山空手道連盟最高師範。段位は九段。国際空手道連盟 極真会館出身で、山崎照朝と並び、天才と称された〔「山崎照朝 - 円の受けと構えの極意-華麗なる組手の秘密」『月刊フルコンタクトKARATE』 1995年、10月号、福昌堂、9頁、15頁。〕〔『月刊フルコンタクトKARATE』 2006年、12月号、福昌堂、61頁。〕〔磯部清次 『ザ・ブラジル極真』 スキージャーナル、1999年、117 - 118頁。〕。東京都文京区小石川生まれ〔『月刊フルコンタクトKARATE』 No.18、福昌堂、1988年8月8日、3 - 20頁。〕。明治大学法学部卒業。 == 来歴 == 中学でサッカーをやっていた泰彦は、ケンカも頻繁にやる問題児でもあった。それをみかねた兄大山茂が既に空手道を修行していた事から、泰彦の鼻っ柱をへし折る目的で大山道場へ連れて行った。「いつもやっているケンカのようにやればいいんだよ」と言われた泰彦は、いきなり組手をやらされる事になる。「中足蹴りがわからないのでサッカーの蹴りをしたが、結果的にはそれが背足蹴りだった」と泰彦は述懐しているが、同い年の春山一郎〔劇画空手バカ一代に登場する「有明省吾」のモデルで、大山倍達が「歴代の弟子の中で一番強い」と語った人物。〕や茂に組手で、散々に痛めつけられた。 その悔しさから泰彦は大山道場に入門する決心をした。大山倍達以下、師範代である石橋雅史・安田英治・黒崎健時らの指導を受け、春山一郎をライバルと意識して稽古に励む。二年目には茂と、三年目には春山と、互角に組手するようになり、特に茂との組手はまるで親の敵討ちのように激しくやりあうようになり、見かねた大山が兄弟の組手を禁止にした〔〔。 1963年春に大山道場は、野口修からムエタイとの対抗戦を持ちかけられる。大山倍達は黒崎を監督、メンバーに当時「極真四天王」と云われた、岡田博文・泰彦・中村忠・藤平昭雄を選出した〔中村忠 『人間空手』 主婦の友社、1988年、82 - 91頁。〕。黒崎ら5名は、8月から鬼怒川で1か月間合宿を行い、10月のタイ遠征に備えた。しかし12月に延期され、更に翌1964年1月に再延期された。弁護士を目指していた泰彦は、司法試験との兼ね合いからこの遠征を辞退する〔〔『ゴング格闘技』 No.35、日本スポーツ出版社、1996年、34頁、50頁。〕。同年、大山道場は国際空手道連盟 極真会館へ刷新するが、泰彦は「司法試験に合格するには、空手と二股をかけていたのでは到底無理」と考え、一時空手の修行を断念し、極真会館を離れた〔。その後、受験勉強の傍ら、たまに会館に訪れたり、1969年から開催されたオープントーナメント全日本空手道選手権大会の手伝いをする程度の関りであった。 そんな泰彦が1971年4月、本部道場師範代に任命され、正式に極真会館へ復帰した。その理由を「(司法試験に対して)自分の限界もみえた。そんな時に大山(倍達)館長からお誘いを受けた〔」と語っている。同年6月15日に四段允許。秋に開催された第3回全日本選手権では、開催直前まで裏方スタッフとして働いていたところ大山より出場するように命じられ、当時としては異例の29歳で急遽初出場し、準優勝した〔『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、44 - 45頁、49頁、58 - 61頁。〕。 1972年百人組手に挑戦。同年、インストラクターとして渡米し、アラバマ州バーミングハムで指導を始める。その後、アメリカ各地、ヨーロッパでも極真空手の普及に勤しむ。現地で育成した主な門下生に、チャック・チズム〔第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ベスト16。〕や竹森毅〔第4回トーア杯新空手ジャパンオープン中量級チャンピオン。〕らがいる。第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会前には「日本選手が優勝しなくてはいけない」という大山の意向で送り込まれた郷田勇三・添野義二・佐藤勝昭・岸信行・二宮城光・佐藤俊和〔極真会館秋田支部所属で、第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから「闘将」と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。〕らを指導した〔『格闘Kマガジン』 2001年、3月号、ぴいぷる社、8 - 9頁。〕。 毎年秋に開催されている全日本選手権と全世界選手権ではテレビ中継の解説を担い、そこで様々な論理を展開し、好評を博していた〔『ゴング格闘技』 1989年、5月号、日本スポーツ出版社、14頁。〕。これら大会では自らトンファーを持ち、真剣を持った相手との演武も行った。ドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ2」(三協映画)では、このトンファーの他にヌンチャクでの演武も披露している。また、劇画空手バカ一代でも重要人物の一人として登場した。 1984年極真会館から離脱。兄の茂や三浦美幸と共に国際大山空手道連盟を設立し、最高師範に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大山泰彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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