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大岡 忠吉(おおおか ただよし)は江戸時代初期の旗本。従五位下美濃守。旗本・大岡忠右衛門忠政の四男。相模国高座郡高田村の地頭。 == 生涯 == 慶長8年(1603年)、16歳の時に将軍家に拝謁して、翌慶長8年(1603年)には父・大岡忠政から、相模国高座郡高田村に160余石の所領を分与された。 慶長18年(1613年)、幕府より更に飛び地として、相模国鎌倉郡手広村を与えられる。 慶長19年(1614年)、大坂の役では幕府方に従軍。寛永3年(1626年)には所領は1500石となる。その後所領は2300石までなった。 寛永10年(1633年)女院付となり、2代将軍・秀忠の娘・東福門院(徳川和子)に近習した。のち従五位下美濃守に叙任される。この際、飛び地として山城国相楽郡へ300石加増された。 明暦2年4月16日(1656年5月10日))に死去。享年70。嫡男・忠章が後を継ぎ、2000石の旗本となった。 他に次男・忠明は2000石の旗本ととなり、四男・忠房は300石を分け与えたため、のち岩槻大岡家の祖となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大岡忠吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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