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大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。 == 略年譜 == *1909年(明治42年) :3月6日 - 東京市牛込区新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた〔大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、3頁)〕。父貞三郎は和歌山市近郊の農家の三男で、昇平の生まれる前年上京して、株式仲買店に勤めていた〔。 *1919年(大正8年) :従兄洋吉に勧められ「赤い鳥」に童謡を投稿、入選〔『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』104頁〕。 *1921年(大正10年) :4月 - 府立一中受験に失敗。青山学院中学部に入学、キリスト教の感化を受ける〔大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、4頁)〕。秋、母・つるが芸妓だったことを知った〔大岡昇平著『少年─ある自伝の試み』(1975年、筑摩書房、98頁)〕。 *1925年(大正14年) :12月 - 成城第二中学校4年に編入〔。同級に古谷綱武、富永次郎、安原喜弘、加藤英倫らがいた。また、山口二矢の実父である山口晋平も同級である〔沢木耕太郎『テロルの決算』より〕。 *1926年(大正15年・昭和元年) :4月 - 成城中学校が7年制の成城高等学校となったため、高等科文科乙類に進学〔。 *1927年(昭和2年) :9月 - アテネ・フランセの夜学でフランス語を学ぶ。 *1928年(昭和3年) : - 村井康男を通じて小林秀雄を紹介され、小林からフランス語の個人教授を受ける。詩人中原中也とも小林を通じて知り合った。 *1929年(昭和4年) :3月 - 成城高等学校を卒業〔。 :4月 - 京都帝国大学文学部文学科に入学〔。河上徹太郎や中原中也らと同人雑誌「白痴群」を創刊〔。 *1932年(昭和7年) :3月 - 京都帝国大学卒業〔『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』105頁〕。 *1933年(昭和8年) :スタンダールへの傾倒始まる〔。 *1934年(昭和9年) :2月 - 国民新聞社に入社〔。 *1935年(昭和10年) :2月 - 国民新聞社を退社〔。 *1938年(昭和13年) :10月 - 帝国酸素に翻訳係として入社〔。 *1943年(昭和18年) :6月 - 帝国酸素を退社〔。 :11月 - 川崎重工業に入社〔。 *1944年(昭和19年) :3月 - 教育召集で、東部第二部隊に入営〔。 :7月 - フィリピンのマニラに到着〔。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた〔。 *1945年(昭和20年) :1月 - 米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される〔。 :8月 - 敗戦。同年12月、帰国し、家族の疎開先の兵庫県明石市大久保町に着いた〔『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』106頁〕。 *1949年(昭和24年) :3月 - 『俘虜記』により横光利一賞を受賞〔。 :4月 - 明治大学文学部仏文学講師に就任。 *1952年(昭和27年) :2月 - 『野火』を創元社より刊行、5月読売文学賞を受賞〔。 *1961年(昭和36年) :5月 - 『花影』を中央公論社より刊行〔『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』107頁〕。 :11月 - 『花影』により毎日出版文化賞、新潮社文学賞を受賞〔。 *1964年(昭和39年) :3月 - 中国作家協会などの招きで中国を訪問〔。 *1971年(昭和46年) :9月 - 『レイテ戦記』を中央公論社より刊行〔。 :11月 - 芸術院会員辞退〔。 *1972年(昭和47年) :1月 - 『レイテ戦記』により毎日芸術賞を受賞〔。 *1974年(昭和49年) :1月 - 『中原中也』を角川書店より刊行〔。 : - 野間文芸賞を受賞〔。 *1976年(昭和51年) :1月 - 朝日文化賞を受賞〔『新潮日本文学アルバム 大岡昇平』108頁〕。 *1978年(昭和53年) :3月 - 『事件』により日本推理作家協会賞を受賞〔。 *1988年(昭和63年) :12月25日 - 脳梗塞のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁〕。遺志により葬儀・告別式は行われなかった〔。 *1989年(平成元年) :2月 - 『小説家夏目漱石』により読売文学賞を受賞。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大岡昇平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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