|
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日) - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 陸軍中将、駐ドイツ大使の大島浩は長男、日本大学農獣医学部教授を務めた箕作祥一は孫。 == 略歴 == * 1858年 - 美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)の藩士の子として生まれる〔ただし宮武外骨は「前陸軍大臣であつた大島中将は岐阜県の特殊部落の出身であると云ふ事が先年大阪の朝日新聞に出て居たが、果して其事が真ならば、我は旧穢多族なりと叫んで貰ひたい」と発言している(1919年8月13日、平民大学講演会での発言)。このとき臨監の警官は中止を命じたが、外骨は屈せず、これを『赤』第6号に発表している。『宮武外骨著作集』第8巻(河出書房新社)解説「宮武外骨と『穢多』の語」(師岡佑行)を参照。〕。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。 * 1881年(明治14年)- 陸軍士官学校(旧4期)卒業。ドイツ留学を経験。 * 1894年(明治27年)- 日清戦争。山縣有朋の信任を受け、第1軍の副官を務める。 * 1904年(明治37年)- 日露戦争。大本営勤務。この後は参謀本部勤務となる。 * 1906年(明治39年)- 参謀本部第四部長。 * 1911年(大正元年)- 参謀次長。 * 1916年(大正5年) *3月30日~10月9日 - 第2次大隈内閣陸軍大臣。 *10月9日~1918年(大正7年)9月29日 - 寺内内閣陸軍大臣。 * 1919年(大正8年)- 予備役に編入。 * 1920年(大正9年)- 貴族院勅任議員。 * 1926年(大正15年)- 大東文化学院総長(第3代)に就任。 * 1940年(昭和15年)- 枢密顧問官。1946年(昭和21年)まで務める。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大島健一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|