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大島勝 : ウィキペディア日本語版
旭天鵬勝[きょくてんほう まさる]

旭天鵬 勝(きょくてんほう まさる、1974年9月13日 - )は、モンゴル国ウランバートル市ナラフ区ナライハ町出身で、大島部屋友綱部屋に所属していた元大相撲力士。本名は太田 勝(おおた まさる)、モンゴル名(帰化前)は ニャムジャウィーン・ツェウェグニャムモンゴル語キリル文字表記:、ラテン文字転写:''Nyamjavyn Tsevegnyam'')。所属していた大島部屋の師匠だった2代大島(元大関・旭國)の養子(婿養子ではない)で、現在は年寄・4代大島として友綱部屋にて後進の指導に当たっている。
愛称は「テンホー」(四股名に由来)で、30歳代後半以降でも幕内力士として活躍したことから、マスコミでは「角界のレジェンド」とも形容されていた。現役時代の体格は身長191cm・体重161kgで、長身による懐の深さを生かした取り口で知られた。得意手は右四つ、寄り。最高位は西関脇2003年7月場所・11月場所、2004年5月場所)。
== 来歴 ==
1992年2月に旭鷲山旭天山らと共に来日して大島部屋に入門し、大相撲史上初のモンゴル出身力士の1人として同年3月場所において初土俵を踏む。もともと相撲や柔道の経験はほとんどなく、中学時代はバスケットボールをしていた。
来日して半年後に、稽古の厳しさや日本の食文化などに馴染めず、共に来日した5人と部屋を脱走してモンゴル大使館に駆け込むが、モンゴルの実家まで来た師匠・2代大島親方に「今に相撲はモンゴルの時代になる」と説得されて部屋へ戻った。
来日後の3ヶ月間は通訳が付いたものの、ほとんど辞書を使わずに流暢な日本語を修得した。後にはその経験を買われて、2000年5月30日に「学習ストラテジー概論:効果的な言語習得のために 」というテーマで、早稲田大学日本語研究教育センター教授の宮崎里司と対話形式で授業を行ったことがある。その内容は『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(日本語学研究所、2001年、ISBN 4625683181)という宮崎里司の著書でも紹介されている。
1994年3月場所に幕下へ昇進し、1996年1月場所には西幕下9枚目の位置で7戦全勝という成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦ではこの場所において幕下付出で初土俵を踏んだ熊谷に敗れたものの、「幕下15枚目以内で7戦全勝すれば無条件に十両昇進する」という内規により、翌3月場所において新十両へ昇進した。その後、途中で幕下へ陥落することもあったものの、約2年間にわたって十両に在位し、1998年1月場所において新入幕を果たした。
その後、十両へ2回陥落したものの、1999年5月場所に3回目の入幕を果たしてからは幕内に定着し、2000年1月場所では11勝4敗と幕内では自身初となる二桁勝利を挙げて初の敢闘賞を受賞した。2002年1月場所では新三役となる東小結へ昇進した。2002年9月場所では横綱・貴乃花を破って初の金星を挙げた。2003年3月場所には横綱・朝青龍掛け投げで破り2個目の金星を挙げ、東前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越して2回目の敢闘賞を受賞した。西小結へ昇進した翌5月場所でも10勝5敗と三役としては自身初となる勝ち越しを決めて3回目の敢闘賞を受賞した。自己最高位となる西関脇へと昇進した翌7月場所では6勝9敗と負け越したものの、翌9月場所では東前頭2枚目の位置で10勝5敗の好成績を挙げて4回目の敢闘賞を受賞した。
2004年1月に日本国籍の取得を申請し、2005年5月12日にモンゴル国籍を離脱、同年6月22日に旭天山と共に日本国籍を取得して、モンゴル出身力士としては初となる日本への帰化を果たした。2006年1月にはモンゴル政府より、オリンピックのメダリストなどに贈られるスポーツ功労賞を受賞している。大相撲力士では、旭鷲山・朝青龍に続いて3人目の受賞者となった。同年5月23日には婚約を発表した。
2006年7月場所には、当時の現役力士では土佐ノ海と並び史上1位となる幕内連続出場660回を記録した。その後も幕内連続出場は続いたものの、2007年5月場所前に人身事故を起こし出場停止処分を受けてこの場所を全休(関取となってから初の休場)し、現役力士では単独1位となっていた幕内連続出場記録は720回で途切れた。8年ぶりに十両へ陥落した翌7月場所では12勝3敗と大きく勝ち越して優勝決定戦まで進出し、優勝決定戦では巴戦岩木山に敗れたものの、翌9月場所に1場所で幕内へ復帰した。その9月場所では千秋楽まで白鵬と優勝を争い、最終的には12勝3敗という好成績を挙げて5回目の敢闘賞を受賞した。2007年11月場所で旭天山が引退して以降は、旭鷲山らと共に来日した初のモンゴル出身力士6人の中で現役最後の力士となった。
2009年1月場所では西前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越し、翌3月場所において17場所ぶりに小結に復帰した。34歳5ヶ月での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上9位の年長記録となった。同年7月場所にも小結に昇進し、34歳9ヶ月16日での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上6位の年長記録、通算10回目の三役昇進は史上8位タイの記録となった。
2012年4月に師匠の2代大島が定年退職を迎えて大島部屋が閉鎖されたため、他の所属力士と共に友綱部屋へと移籍した〔旭天鵬ら大島部屋全員 友綱部屋へ移籍 スポーツニッポン 2012年3月25日〕。友綱部屋へ移籍後初の場所となった同年5月場所では、西前頭7枚目の位置で5日目までは黒星と白星が交互に続く2勝3敗の成績だったものの、そこから一転して快調に白星を重ねていき、14日目には大関・琴欧洲を豪快な上手投げで破り、千秋楽には関脇・豪栄道にも勝利して10連勝し、12勝3敗の成績で優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦では、千秋楽では対戦相手の琴欧洲が前日の旭天鵬戦で右足根骨靱帯を損傷し休場したために不戦勝となった栃煌山と現行制度では初となる平幕力士同士での対戦となり、その優勝決定戦で栃煌山を叩き込みで破り、自身初となる幕内最高優勝を果たした。37歳8ヶ月での幕内初優勝は、優勝制度が制定された1909年(明治42年)6月場所以降では1916年(大正5年)1月場所における西ノ海の35歳11ヶ月を96年ぶりに更新する史上最年長記録、昭和以降でも1930年(昭和5年)1月場所における豊國の35歳6ヶ月を大きく更新する史上最年長記録となり、年長優勝記録としても太刀山の持つ38歳9ヶ月・37歳9ヶ月に次ぐ史上3位、年6場所制となった1958年以降では1990年11月場所における千代の富士の35歳5ヶ月を上回る最年長記録となった。15日制が定着してから、序盤の5日間で3敗した力士が優勝したのも史上初である。また、初土俵から所要121場所・新入幕から所要86場所での初優勝は2000年3月場所における貴闘力の同103場所・58場所を抜いて1909年以降では史上1位のスロー記録、平幕優勝は2001年9月場所における琴光喜以来10年8ヶ月ぶり、モンゴル出身力士としては朝青龍・白鵬・日馬富士に続く4人目、モンゴル出身力士通算では50回目の幕内最高優勝となり、日本国籍を持つ力士の優勝は2006年1月場所における栃東以来37場所ぶりのこととなった。同時に6回目の敢闘賞も受賞した〔史上初平幕決定戦制した!37歳旭天鵬 涙の最年長初V スポーツニッポン 2012年5月21日〕 。
続く同年7月場所では、東前頭筆頭の位置で初日から8連敗と早々に負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて初日から13連敗を喫してしまい〔旭天鵬21世紀初の13連敗/名古屋場所 日刊スポーツ 2012年7月20日〕、14日目と千秋楽には勝利して15戦全敗は免れたものの、結果的には2勝13敗という大敗に終わった。1場所15日制が定着した1949年以降で、前場所の優勝力士が翌場所において初日から8連敗で負け越すのは史上初のこととなり、また前場所の優勝力士が翌場所に皆勤して13敗を喫したのは1968年5月場所における若浪および2000年5月場所における貴闘力と並ぶ史上1位のワースト記録となった。
東前頭11枚目の位置まで番付を下げた翌9月場所では、幕内では自身初となる初日からの8連勝で中日に勝ち越しを決めた。38歳0ヶ月3日での幕内中日勝ち越しは、1952年1月場所における羽黒山の37歳2ヶ月を60年ぶりに更新する史上最年長記録となった〔旭天鵬、高見山に並んだ!外国出身力士最多812勝 スポーツニッポン 2012年9月17日〕〔38歳の旭天鵬 自身初の8戦全勝で高見山に並ぶ812勝 スポーツニッポン 2012年9月16日〕。9日目には栃煌山を破り通算813勝目を挙げて、高見山が持つ外国出身力士の最多通算勝利記録を28年ぶりに更新した。その後は優勝争いからは脱落し、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の豪栄道戦にも敗れてしまい三賞受賞も逃したものの、10勝5敗という好成績を挙げた。翌11月場所でも10勝5敗の成績を挙げて自身初となる2場所連続しての二桁勝利を記録した。
2013年3月場所では9日目に通算出場1655回を記録して、高見山が持つ外国出身力士の最多通算出場記録を29年ぶりに更新した。同年9月13日には39歳の誕生日を迎えて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年3月場所において39歳8ヶ月で十両へ陥落するまで幕内に在位した高見山に次いで2人目となる39歳の幕内力士となり〔旭天鵬が39歳誕生日 40歳幕内目指す デイリースポーツ 2013年9月13日〕、直後に行われた同年9月場所では13日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では1983年11月場所において39歳5ヶ月で勝ち越しを果たした高見山に次いで2人目となる39歳での幕内勝ち越しを記録した〔旭天鵬 8勝目 30年ぶりの39歳勝ち越し「今までとはちょっと違うね」 スポーツニッポン 2013年9月27日〕〔この場所では39歳で勝ち越したことを評価されて敢闘賞候補に名前が挙がったが、ある審判委員が「これであげれば、これから先勝ち越したら必ずあげないといけなくなる」と指摘したことで受賞は見送られた。〕。
2014年1月場所では10日目に白鵬と結びの一番で対戦し、昭和以降では1983年7月場所での千代の富士戦における高見山の39歳0ヶ月を抜いて史上最年長となる39歳4ヶ月での結びの一番への出場を記録した〔旭天鵬 完敗も記録ずくめ「名古屋場所でいけるじゃん」 スポーツニッポン 2014年1月22日 〕。11日目には魁皇を抜いて史上3位となる通算出場1732回を記録した。翌3月場所では12日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では高見山を抜いて史上最年長記録となる39歳6ヶ月での幕内勝ち越しを記録すると同時に、39歳を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。
翌5月場所では初日の時点で39歳7ヶ月28日となり、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年1月場所千秋楽における高見山の39歳7ヶ月6日の記録を30年ぶりに更新しての史上最年長幕内力士となった〔最年長の旭天鵬 ゴルフに例え苦笑い「ティーショットはよかったけど」 スポーツニッポン 2014年5月11日 〕。6日目には新横綱の鶴竜と、7日目には白鵬とそれぞれ結びの一番で対戦し、自身が持つ結びの一番の史上最年長出場記録を39歳8ヶ月に更新した。10日目には同場所における初白星を挙げて、1984年1月場所初日に幕内にて高見山が39歳206日で挙げた白星の記録を抜いて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては最年長記録となる39歳249日での幕内勝利を記録した〔旭天鵬 最年長39歳249日で幕内白星 高見山超え スポーツニッポン 2014年5月21日 〕。翌7月場所では14日目に寺尾を抜いて史上3位となる幕内通算出場1379回を記録した。
2014年9月13日には40歳の誕生日を迎えて、昭和以降では1954年9月場所における名寄岩以来となる5人目、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては史上初となる40歳の幕内力士となり〔旭天鵬、60年ぶり40代幕内-大相撲 時事ドットコム 2014年9月13日 〕、その翌日から開始された同年9月場所では、初日に隠岐の海を上手投げで破り、1954年9月場所千秋楽において名寄岩が増巳山に勝利して以来60年ぶりとなる40歳での幕内勝利を記録した。13日目には栃乃若を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟と1941年5月場所における藤ノ里に続いて3人目、戦後および年6場所制となった1958年以降では史上初となる40歳代での幕内勝ち越しを記録した〔レジェンド旭天鵬73年ぶり40代勝ち越し 日刊スポーツ 2014年9月26日 〕。千秋楽には寺尾を抜いて史上2位となる通算出場1796回を記録した。
翌11月場所では4日目に大潮に次いで史上2人目となる通算出場1800回を記録し、5日目には高見山・魁皇に続いて3人目となる幕内通算出場1400回を記録した。6日目には千代大龍を寄り切りで破り、魁皇・千代の富士・大潮・北の湖に続いて史上5人目となる通算900勝を達成した〔40歳・旭天鵬900勝!通算勝利歴代5位「いい感じや」 スポーツニッポン 2014年11月15日〕。9日目には豊ノ島を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟の40歳1ヶ月15日を抜いて史上最年長記録となる40歳2ヶ月4日での幕内勝ち越しを記録すると同時に〔旭天鵬、あるぞ史上初40歳V!1敗キープ、三役昇進ある スポーツ報知 2014年11月18日〕、40歳代を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。その後は優勝争いからは脱落したものの、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の千代丸戦には勝利して、最終的には10勝5敗の好成績を挙げて7回目の敢闘賞を受賞し、1958年11月場所において38歳9ヶ月で技能賞を受賞した若瀬川の史上最年長三賞受賞記録を56年ぶりに更新すると同時に、昭和以降では史上初となる40歳代での三賞受賞〔大相撲九州場所:40歳の旭天鵬が最年長三賞 毎日新聞 2014年11月23日〕ならびに幕内での二桁勝利を記録した。
2015年3月場所では6日目に高見山を抜いて史上2位となる幕内通算出場1431回を記録した。翌5月場所では5日目に魁皇を抜いて史上1位となる幕内通算出場1445回を記録し、14日目には佐田の富士を破って勝ち越しを決めて、自身が持つ昭和以降における幕内勝ち越しの史上最年長記録を40歳8ヶ月10日に更新した。
西前頭11枚目の位置で迎えた同年7月場所では、9日目に豊ノ島に敗れて寺尾を抜いて史上1位となる通算939敗目を記録した。11日目には貴ノ岩に敗れて負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて全く白星を挙げることができず、最終的に3勝12敗と大敗して、翌9月場所における十両陥落が決定的となった。本人は十両へ陥落した場合は十両では相撲を取らずに引退することを公言していた〔旭天鵬が幕内にこだわったのは故郷モンゴルに残された家族に雄姿を見てもらうためであった。モンゴルでは幕内であれば取組が生中継されるが、十両では結果が伝えられるだけである。〕ため、千秋楽の翌日となる同年7月27日に現役引退を発表し、年寄・4代大島を襲名して友綱部屋の部屋付き親方に就任した〔旭天鵬が引退 年寄「大島」を襲名 日刊スポーツ 2015年7月27日〕。引退会見では「白星黒星で左右される勝負の世界。年齢がいくと気持ちのダメージが大きい。自分の力が無くなったんじゃないかと。気持ちの糸が切れた感じ」とコメントし、「十両で、もう一回(関取の)スタートラインにいく自信はない」ともこぼした。思い出の一番として2012年5月場所の優勝決定戦を挙げており「土俵の上で泣いたのは初めて。あの優勝で、いろんな人に知ってもらったし、僕も成長できた」と振り返った。親方としての目標を「たくさんの拍手、声援をもらい、みんなに愛される力士を育てたい」と語り、将来は部屋持ち親方として”旭天鵬2世”を送り出す夢を明らかにした。〔40歳・旭天鵬 涙と笑いの引退表明「愛される力士育てる」 Sponichi Annex 2015年7月28日 05:30 〕


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「旭天鵬勝」の詳細全文を読む



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