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大崎憲司 : ウィキペディア日本語版
大崎憲司[おおさき けんじ]

大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手投手)。
== 来歴・人物 ==
福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に2回(春1回〈1940年〉、夏1回〈1940年〉)出場〔出身校・都道府県別プロ野球選手リスト(西日本編) 〕。1940年春の大会ではベスト4まで進出した。福岡工時代のチームメイトに、上野義秋千頭久米夫伴勇資(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。
福岡工業卒業後は、八幡製鉄西日本鉄道硬式野球部と社会人野球のチームに所属。の第19回都市対抗野球大会では、右翼手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、先述の上野、千頭、伴の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。
にこの年新設された西鉄クリッパース投手として入団。しかし不慣れなポジションのためか、制球難に苦しみ、プロ通算で2勝を挙げただけに留まった。一方で打撃面では代打として出たこともあり、南海時代には打率.375をマークするなど実力を発揮した。に南海ホークスに移籍し、同年限りで引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大崎憲司」の詳細全文を読む



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