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大崎 持詮(おおさき もちあきら)は、室町時代中期の陸奥大崎氏の第6代当主。持詮については学説上、諸説あるがここでは通説に従う。 == 通説 == 大崎氏6代目。斯波満持(みつもち、一説にその父・満詮)の嫡男。官位は左衛門佐。後に従四位上、左京大夫。法名昌朔、修心院と号したという。持詮は「朔の殿」と通称され、弟の直兼(ただかね/なおかね)は「青塚殿」と称された。諱(持詮)の「持」は、第4代将軍・足利義持の偏諱を受けたものである。元々大崎氏でも「持」の字が通字として使用されていたため、曽祖父とされる大崎詮持が足利義詮から賜って以来、家でのもう一つの通字となっていた「詮」の字を諱の二文字目に使用している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大崎持詮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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