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大戦争 *大規模な戦争。 *世界大戦の事。 *ウルグアイで起きた内戦。以下で解説する。 ---- 大戦争(だいせんそう、西:''Guerra Grande'')とはモンテビデオを巡るウルグアイのコロラド党とブランコ党の内戦である。なお、コロラド党にはラ・プラタ川の通行権などを巡ってアルゼンチンと対立していたイギリス、フランスと、ウルグアイを再び併合したいブラジル帝国、及びイタリア人ジュゼッペ・ガリバルディの赤シャツ隊が、ブランコ党にはアルゼンチン連合をコントロールしていたブエノスアイレス州知事フアン・マヌエル・デ・ロサスが肩入れしていた。 == 開戦の経緯 == 前史として連邦同盟の項を参照されたい。 1828年にアルゼンチン・ブラジル戦争の結果としてウルグアイが独立すると、緩衝国として独立したウルグアイはたちまちブラジル帝国、アルゼンチンの二大国によって翻弄された。1828年に独立した「ウルグアイ東方共和国」の初代大統領には、後にコロラド党を創設するフルクトゥオソ・リベラが就任した。リベラは自由主義的、つまり反アルゼンチン的な政策を採って、1829年にアルゼンチンの権力を握った、フアン・マヌエル・デ・ロサスに追われた統一派(中央集権派)のアルゼンチン人亡命者を受け入れたが、ロサスがこれを座視できるはずもなく、この時点で既に後の戦争の舞台は用意されていたといえる。 1836年までにウルグアイでは現代まで続く二大政党が誕生したが、それぞれ自由主義のコロラド党がモンテビデオの都市民(特にイタリア系移民を支持層にしていた)の支持を背景に親ブラジル派政策を、保守主義のブランコ党が農村部の従来のスペイン系市民の支持を背景に親アルゼンチン派政策を採っていた。 1835年に内陸部の連邦派指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると、混乱を収めるために保守的な連邦派のカウディージョ、ロサスが議会に請われてブエノスアイレス州知事に返り咲き、事実上のアルゼンチンの支配者となった。一方、ロサスと個人的に親しかったブランコ党の党首マヌエル・オリベはこのアルゼンチンの連邦派の立場に近く、33人の東方人を率いてブラジルとの戦争を戦ったフアン・アントニオ・ラバジェハもこの立場に近かった。つまり、ウルグアイとアルゼンチンの連邦主義による連合を望んでいたのであり、パラグアイ、ウルグアイをアルゼンチンの領土だと考えていた大アルゼンチン主義者のロサスがブランコ党を支持するのも当然であった。 1830年代当時の英仏二大列強はラ・プラタ川流域に進出することを目論んでいた。既に1833年にはイギリス軍によってマルビーナス諸島が占領されていたが、1838年にフランス人の徴兵問題を巡ってロサスと対立したフランスが、パタゴニアを占領するとの脅しをかけてブエノスアイレスを海軍で包囲した際に、当時ウルグアイ大統領だったオリベがロサスに好意的な態度をとると6月15日、リベラや亡命アルゼンチン統一派はフランス軍の介入を求めた。1838年の10月にオリベはフランスの軍事介入を理由に大統領を辞任すると、コロラド党のリベラ政権が樹立された。 自由主義のリベラ政権が樹立されると、アルゼンチン統一派はモンテビデオに亡命政府を樹立した。フランスはコロラド党を支援することで、ラ・プラタ地域に進出するための傀儡政府を樹立しようと考え、密かにこれを支援していた。ロサスはこのコロラド党政権を承認することなど到底出来なかったために、1839年、リベラはアルゼンチンに宣戦布告した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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