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大昭和製紙硬式野球部[だいしょうわせいしこうしきやきゅうぶ]
大昭和製紙硬式野球部(だいしょうわせいしこうしきやきゅうぶ)は、静岡県富士市に本拠地を置き、日本野球連盟に所属していた社会人野球チームである。 == 概要 == 、専務だった斉藤了英が総監督兼投手となり、部員12人で創部〔朝日新聞、1993年11月30日付朝刊、P.23〕。には都市対抗で初優勝し、荒川宗一、石井藤吉郎、徳丸幸助のクリーンナップを擁する当時のチームは「東海の暴れん坊」と呼ばれた〔毎日新聞、1993年7月22日付夕刊、P.7〕。からにかけては都市対抗の山静地区予選で11連覇を達成するなど、同地区の河合楽器や日本軽金属の前に立ちはだかった〔毎日新聞、2001年11月29日付朝刊、静岡地方面〕。に設立された野球部後援会には後に企業・個人合わせて約1,000人が加入するなど地元で熱烈な支持を受け、会長となった斉藤了英も強く支援していた〔朝日新聞、1993年12月1日付朝刊、静岡地方面〕。 、にも都市対抗で優勝したが、本体の業績悪化によりに休部。しかし富士市民から復活を要望する82,000名の署名が集まった事もあり、2年半後のに活動を再開している〔。1990年代に入ると製紙業界の不況でまで本体が3期連続の赤字となり、同年の中間決算では負債が約4,400億円に達した〔毎日新聞、1993年11月29日付夕刊、P.10〕。さらにゼネコン汚職事件に関連して名誉会長の斉藤了英と副会長の清沢平が逮捕され、同年11月29日に白老町の野球部やボウリング部、陸上部とともに休部が発表された〔。富士野球部の年間経費は5,000-6,000万円であり、当時の本体には運営する余裕がなかったという〔。既に翌年入社する新人も6人内定していたが白紙とし、24人いた部員は12人が他企業に移籍、残り12人は大昭和製紙に残った〔朝日新聞、1993年12月15日付朝刊、P.21〕。地元市民や斉藤滋与史からは復活を求める意見もあったが、に正式に廃部となっている〔毎日新聞、1996年6月28日付朝刊、P.31〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大昭和製紙硬式野球部」の詳細全文を読む
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